「今日は関ケ原の2回目ということで、お願いします」
「壬申の乱(672年)として知られています。一般的には、皇位継承争いとして説明されています。決戦が関ケ原になった訳ではありませんが、カギを握った場所となりました」
「ということは、身内同士の争いですか?」
「天智天皇の子供と弟の争いです」
「天智天皇は亡くなる前に、後継者を決めなかったのですか?」
「病症の枕元に弟を呼んでいます。そこで意志確認をしたようですね。お付きの人のアドバイスもあり、弟は天皇になるつもりはないと言ったそうです。そして、彼は髪を落として吉野に出家をして、子の大友皇子は弘文天皇として即位します」
「一件落着だと思うんですけど……」
「普通はそうなんですが、安心のため、弘文天皇から見れば叔父の大海人皇子(おおあまのみこ)を討っておいた方が良いだろうということになります」
「そんなに簡単に決めてしまうものなんですか? 邪魔者は消せということですよね」
「当時の感覚はそうなんでしょうね。やらなければ、自分がやられるかもしれない。ところが、その動きを大海人の側に察知されてしまいます」
「ただ、大海人皇子は出家した身なので、そんなに味方をする人も兵隊もいないでしょ」
「そこが一番問題ですよね。弘文側の動きを聞いた時は、戦う決意をして、翌月には使いを美濃(岐阜)に派遣しています。派遣した後、いったん戦うのを止めようとしています」
「負け戦になると思ったからですか?」
「人が集まらなければ、討ち死にですからね。ところが、吉野に皇后(後の持統天皇)や自分の子(皇子)たちが続々と合流してきたのです。そして彼らを引き連れて東国に向かいます」
「戦うような態勢になったのですね」
「吉野を北上して、三重の伊賀、さらには伊勢に入ります。そういった一行に地方の国司たちが合流します。そのうち、不破道、つまり関ケ原を抑えたという報が届きます」
「ここからが本論です ↓ 表紙提供は「紀伊國屋書店」です」
『古事記』の神武東征と重複
大海人皇子(後の天武天皇)がとった吉野から宇陀郡を通過して伊賀に入り、そこから関ケ原から大津京の陥落のコースというのは、『古事記』に書かれている神武東征のコースと一部ダブります。『古事記』を紐解くと、大海人皇子にとって宇陀は思い入れがある地なのか、詳しく書かれています。
神武天皇は九州から瀬戸内海を通り、熊野から入って北上します。吉野まで来ると、ここから先は荒ぶる神が多いので大変危険だと言われて道先案内役として八咫烏(やたからす)が神から与えられます。そのカラスが宇陀まで神武を案内します。宇陀は神武天皇が強く踏み越えた地と『古事記』に書かれており、ここでウカシ兄弟と出会います。
ウカシ兄は神武を殺そうとしたため、大伴氏や久米氏の祖先神に殺されてしまいます。そして弟は神武に忠誠を誓います。ここから神武はさらに大和を目指して進むというのが神武東征の筋書きです。『古事記』は天武天皇が編纂を命じていますので、彼の経験や思いが反映していたとしても不思議ではありません。
(「邪馬台国は」)
人集めが上手くいかず
弘文天皇の側に、大海人の決起の情報が入ります。慌てて、東国、大和、筑紫、吉備に使いを出して、その地の国司を味方に引き入れようとします。ところが、これが上手くいきません。すべて不首尾に終わります。
両軍は近江と大和を舞台に戦います。その地を中心に、約1か月間延べ10か所で戦闘がありました。大和での戦いでは大海人軍が苦戦をします。弘文に味方したのが大和の豪族だったため、地の利が働きます。しかし、近江の戦いでは大海人側が圧倒します。最後の決戦の場が大津宮近くの瀬田橋でした。そこで弘文方の将軍が次々と討たれると部隊から離れる兵が続出。最後に残った弘文天皇、逃げ場がなくなり自刃するしか道は無かったのです。
天皇に弓を引いて勝ったものが天皇として即位した例は、これ以降はありません。弘文天皇の敗因は、人集めが上手く行かなかったからです。弘文側についた豪族は、ほとんどが朝廷周辺の豪族だったのです。
(「飛鳥の扉」)
弘文天皇は何故負けたのか
なぜ、人が集まらなかったのか。彼の父の天智天皇の改革(大化の改新)に対する豪族たちの評判が良くなかったからです。天智天皇は有能なやり手の天皇だったと思いますが、様々な改革を半ば強引に実行したため、周りの評判は今一歩だったのです。
例えば、これまでの臣・連・伴造・国造の職を廃して、新しい官職制度を導入しています。官職は豪族たちにとって大きなプライドでした。総理大臣、国務大臣の職を無くしましたようなものです。その地位にプライドを持っている人にとっては、耐えられなかったでしょう。
当時は天皇が権力を振るっていた時代です。ただ、強引な改革に対して反乱計画が相次いで起きます。649年の蘇我石川麻呂の反乱計画が未遂で終わりましたが、関係者23人が殺され、15人が島流しになっています。それ以外にも謀反や放火の動きもあり、653年に中大兄は都を大和に移しています。身の安全確保のためです。その天智の子供ということで、印象がよくなかったのでしょう。地方の豪族の多くは、大海人側についてしまったのです。親の因果が……ということです。
(「中学受験ナビ-マイナビ」)
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