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外来文化と伝統文化の統合をはかる――聖徳太子の足跡(そくせき)を辿る(1) / 聖徳太子1400年の遠忌にあたって

「実は2021年の今年、聖徳太子1400年の遠忌(おんき)にあたる年です」

女性

「すいません、遠忌というのは何ですか?」

「宗祖とか、中興の祖といった高名な方で、50年忌を行った後に、その後50年ごとにその遺徳を追慕して営む法会のことです」

女性

「聖徳太子は1万円札の顔にもなったことがある方でしょ?」

「えっ、ちょっと待って、今の言い方に世代間ギャップを感じてしまいましたが、そうかあなたの世代だと福沢諭吉ですよね」

女性

「そうですね、聖徳太子は父や母の世代ですね。父や母の子供の頃は、近所の商店街で買い物をした時に、1万円札を出したらおつりがなくて大騒ぎだったという話をしていましたね」

「昭和の時代の1万円札は、今とは価値が違いますからね。分かります」

女性

「先日「LINEリサーチ」が1万円札になって欲しい有名人のアンケート結果を発表していましたが、聖徳太子は3位でしたね。ちなみに、2位が福沢諭吉、1位が坂本龍馬でした」

「坂本龍馬は私には、意外ですね。司馬遼太郎の小説のお陰じゃあないでしょうか。坂本龍馬スパイ説もありますけどね。その話は、ここでは止めましょう。現代の人でランキングインした人がいますか?」

女性

「イチローさん、志村けんさんが入っていましたね」

「そのうち大谷翔平選手が入るようになるかもしれませんよ」

女性

「そんなことになったら、私はそのお札を使いません」

「ただ、その頃にはデジタル通貨で、昔はお札を発行してそこに顔写真を載せたんだよという話を孫たちに言っているんじゃあないでしょうか」

女性

「そうでしょうね。お金も時代とともに変化しますからね。ここからが本論です ↓」

 聖徳太子の生きた時代と現代との類似性

聖徳太子が生きた時代と現代、その類似性を考えてみます今と同じく、大変困難な状況があったことは確かです。国内では蘇我氏、物部氏の2大勢力が対立をしている、官僚たちの腐敗・堕落があり、外交関係では大陸や半島の国々との関係構築などです。細かな中身はもちろん違いますが、対立構造は現代とよく似ています。この3つの難問を聖徳太子はどのように捉え、どのような方法で裁いたのか、現代においてもヒントになることがいくつか隠されていると思いますので、そのような問題意識をもちながら、これらを見ていくことにします

 仏教の受容を巡って国論が分かれる

蘇我氏と物部氏は、仏教の受容を巡って対立します。蘇我氏は受容派です。百済の清明王から贈られた金色のまばゆいばかりの仏像と経典を見た天皇が感激した様子を横目で見て、西の諸国は皆礼拝しているのに、日本だけ礼拝しないのはおかしいと言います。一方、物部氏は日本には伝統的に祀ってきた神がいるので、外来の神を拝むのはおかしいと主張します。どちらの主張も一理あります。困った天皇は、何を信じるかは個人の問題とした上で、蘇我氏に仏教を礼拝することを許可するという形でその場の決着を図ったと『日本書紀』に書かれています。

ただ、この崇仏論争はやがて両者の武力抗争にまで発展して、排仏派の物部氏は蘇我氏に滅ぼされてしまいます。ただ、仏教をどうするかといった問題は、残りました。物部氏の考え方に賛同する人たちも多くいたからです。庶民は物部氏の考え方に同調する人たちが多かったと思います。これに対して聖徳太子が出した結論は、両者を合わせて信仰するというものでした。

(「歴史まとめ.net」)

多分、誰もがそのようなことを考えもつかなかったと思います。普通であれば、宗教戦争が起きるところだからです。もしかしたら聖徳太子は、直感的に「両立」ということを思い浮かべたのかもしれません。ただ、そこから慎重にことを運ぶために、仏教研究に入ります。経典の注釈書まで出すほどに深く学んだ上で、「宗教の両立」を計ります。神道が自然宗教であり多神教であったため、その教えが極めて緩やかだったことが幸いしたことは確かです。

 神仏習合の国としてのスタートを切る

仏教導入と日本の伝統の神々を祀り続けるという両者を追究することを内外に示すために、盛大な儀式を執り行ったことが『日本書紀』の推古朝の中に記録として残っています。607年のことです。こうして、仏教伝来(538年説と552年説あり)以来、約半世紀以上にわたって当時の日本を揺るがした大問題は聖徳太子の努力と叡智により解決され、日本は神仏習合の国として歩み始めます。途中、明治時代に廃仏毀釈という不幸な出来事がありましたが、日本は基本的に神と仏を敬う国として、現在に至っていますが、その原型をつくったのが聖徳太子です。

こうして、庶民のレベルでは慶事は神様に、弔辞は仏様にということで、家庭内に神棚と仏壇が用意されるようになります。地域には神社と寺がやがて建てられるようになっていきます。そして、天皇家は日本の神々を祖先にもつ王家として、それらの神の祭祀について国民を代表して執り行う役割としての地位をそこで確立したのです。それは同時に天皇家を神と繋げた瞬間でもあったのです。そのことによって、皇統が現代にまで繋がることになりました。そのことは同時に、大陸や半島でその後繰り広げられた武力で権力を奪い合うという、血みどろの争いを防ぐことにもなったのです。

(「You Tube」)

 外交問題に取り組む――対等外交と天皇の呼称

7世紀に大陸に隋という統一王朝が誕生します。小野妹子を使者にして持たせた手紙の中にあの有名な言葉が書かれてあったのです――「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや」。中国は伝統的に冊封体制を敷いていましたので、周辺諸国は格下扱いなので、王という呼称となります。王ではなく天子という呼称を使っているので、そういう考え方に与せず、対等外交を求めたいという日本の考え方が短い手紙から読み取ることが出来ます。

隋の煬帝は無礼と言って激怒したとのことです。通常なら兵を挙げて攻撃するところですが、当時の隋は高句麗との戦いに苦労していて、それどころではありません。むしろ、その戦いを有利に運ぶために日本と手を結ぶことを考えるはずだという太子の読みがあったと思います。

翌年に出した手紙にはこう書かれています――「東の天皇、敬しみて、西の皇帝に白(もう)す」。この手紙を受け取った時の記録がありませんが、その後日本から遣隋使というこど何回も隋に留学生が言っていますので、渋々ながらも受け入れられたということでしょう。

太子の外交努力によって中国との対等外交が確立され、さらには独立国家として承認され天皇という呼称が認められたことになります聖徳太子はどのような文面にするか、どのような呼称を使うか、随分考えたと思います。2つの短い手紙を読み比べると、そのことが分かりますし、そこには彼の計算が入っていたのです。策略、計略という日本語には、余り良い意味の響きがありません。ただ、外交交渉は智慧の出し合いです。どのような手を打って自国を有利なポジションに置くのか、為政者ならば当然考えるべきことです。何も考えずに行くため、相手のペースにはまって決めなければいけないことを決めず、決めなくても良いことを決めるハメになって、後から国内で大騒ぎするということが戦後何回か繰り返されてきました。

(「北辰塾☆情報局-FC2」)

大局観をもちつつ、周りの情勢を読み切って、最善の手を打つ。そんなことを聖徳太子の足跡をたどる中で学んで欲しいと思いますし、歴史から学ぶというのは、そういうことなのです。

日本の戦後の歴史学習は、年号と何があったのかという記録を覚えることに偏りすぎています。それでは、何も学べません。だから、戦後は有能な政治家が育たないのです。一人の政治家が国を救うことがあるのです。教科書の内容を含めて考える必要があります。

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