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安倍外交の成果について / アメリカとの真の和解の立役者

「今日は安倍外交の成果について話をしたいと思います」

女性

「「地球儀を俯瞰する外交」と内閣のホームページにも掲載されているように、外交に力を入れていたということは私でもわかります」

「マスコミや評論家はすぐに成果云々を言いますが、これは重ねることだけでも意味があります。総理が一生懸命に行おうとしたこと自体素晴らしいことですので、そこを評価してあげないといけないのではないかと思います」

女性

「8年間の任期中に訪問した国・地域の数が80、延べ訪問回数は176に及びます。総距離数は地球40周分だそうです」

「歴代の総理大臣の中で、安倍首相ほど海外を飛び回った総理大臣はいないのではないでしょうか」

女性

「そのように評価しようとする人と、全く評価しようとしない人に分かれています。例えば、「歴代最長の安倍政権だが、その外交は世界の中で目立っていない」(河東哲夫「外交官の万華鏡」『NewsWeek』)と酷評する人もいます」

「同じものを見ても意見が分かれるのは、これは仕方がないことです。ただ、全面否定、全面肯定はダメです」

女性

「分析的な視点ですね、大事なのは」

「そうですね、安倍外交の中で、成果として挙げること。そうでなかったこと。成果が上がらなかった場合は、その原因分析をする必要があります。そして、成果と言えば、アメリカとの信頼関係の構築、さらには発展の基礎を築いたことでしょうね」

女性

「もともとアメリカとは安保条約を結んでいますし、信頼関係は作られていたのではないでしょうか?」

「外見上は、そのように見えますが、実際の信頼関係は安倍外交の中で深まっていきます。成果なしという人は、そういう細かな分析をしておらず、表面的になぞったように見ているだけなのです」

女性

「問題意識がなければ、何を見ても気付かないということですね。ここからが本論です ↓」

 アメリカとの関係は、移民の歴史とともに始まった


1848年のゴールドラッシュがアメリカに起こります。アジア系移民の問題は、そこから始まります。最初は中国系移民がカリフォルニア州を中心に鉱山労働や鉄道事業に従事しました。その後、日本人移民が明治の初頭からハワイ諸島、アメリカ西海岸の諸都市に住むようになります。

移民した日系人たちは概ね勤勉で真面目に仕事をこなし、低廉な賃金の労働にも余り不平を漏らすことなく従事していたことが、逆に周囲からの反感を買うようになります。つまり、仕事を日本人にとられてしまった現地人が日本人に逆恨みをするようになります。

さらに日系人たちは閉鎖的コミュニティーを作って、地域に溶け込まない、そのためアメリカの市民権の取得に熱心ではない、働いて得たお金を使わずに日本に送金するといった行いがアメリカ人にとって不満であり、よく分からない行為だったのです。

日本人漁業禁止令や児童の修学拒否など、数々の排日運動が起こり、そしてついに、1924年に排日移民法が制定されますアメリカへの移民の道が閉ざされたことと同時に、反米感情が高まります。新渡戸稲造は排日移民法の制定に衝撃を受け、二度と米国の地は踏まないと宣言をします。このように、比較的親米感情をもっていた層に対しても嫌悪感を与えることになります。こういったことが、太平洋戦争の遠因となっていきます。

ついでに言えば、アメリカが移民・帰化関連法規を改正し、人種的制限を撤廃するのは1952年、昭和27年のことです

 

 日露戦争から真珠湾攻撃まで、アメリカとの関係悪化は一直線に進む

日米関係ですが、戦前は決して良くはありません。もともとアメリカというか西欧列強の国は、有色人種に対して本能的に毛嫌いするところがあります。日露戦争で日本が日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破したことを契機として、日本を用心し始め、対日政策が厳しくなります。

日本を開国させたのは、アメリカです。1854年に和親条約を結んでいますが、いわゆる砲艦外交でした。「たった四杯で夜も眠れず」と詠まれたように、黒船4隻が浦賀沖に来ただけで腰を抜かした国が、その50年後には世界最強と言われたバルチック艦隊を撃破してしまったのです。物凄いショックをアメリカは受けたと思います。それと同時に、日本の力を封じ込める作戦に切り替えます

特に日本が「大東亜共栄圏」構想を打ち出し、ドイツ、イタリアと三国同盟を結んだ頃から、日本封じ込め政策を実行し始めます。その第一弾が、ABCD包囲網だったのです。A=アメリカ、B=イギリス、C=中国、D=オランダによる対日経済封鎖です。

その後、ハルノート(アメリカのハル国務長官による対日要求)が1941年11月26日に出されます。内容は、中国、インドからの全面撤退、三国同盟を破棄するよう求めるなど、かなり無理難題な要求でした。結局、外交交渉では無理と判断して、アメリカとの戦争に突入することになります。

 

 日米の真の和解は安倍外交の成果

戦後の対日政策は、日本という国家を滅亡させることを最終目的としつつ、アメリカに2度と歯向かわないような国にすることを当面の占領政策の目的と定めました。当然、占領期間はかなり長くなると思っていたところ、大陸と半島で起きた2つの大きな事変――朝鮮戦争と中華人民共和国の誕生――のため、対日占領政策が180度変わります

大陸と半島情勢の急変を受けて、アメリカは日本との講和を急ぎ、あろうことか安保条約を結びます。1951(昭和26)年のことです。終戦からまだわずか6年しか経っていませんでした。

アメリカという国はプラグマティズムの国です。心より仲直りしたいと思っていなくても、アメリカにとって政策的に仲直り、つまり講和した方が良いと判断すれば、その通りのことを実行しようとする国なのです。だから、講和条約を結び、安保条約を結んだからといって、彼らの心の中では、真の講和はなされてはいないのです。原爆や大空襲、沖縄地上戦によって多くの日本人が死んでいます。アメリカの方も、心の片隅にわだかまりとして残っていたと思います。

それが21世紀になって解消するチャンスが訪れます

2015年に安倍首相は、日本の首相として初めて米連邦議会上下両院合同会議での演説に臨みます。出席議員のスタンディングオベーションは14回に上り、ロイター通信は「かつての敵であった日米が最も緊密な同盟国になった象徴的瞬間」とコメントしたのです。

その後、日米で更なる和解のためのやりとりが行われます。2016年のG7伊勢志摩サミットの際に、オバマ大統領の広島訪問が実現します。オバマ大統領は米国の大統領として初めて広島を訪問します。 「核兵器なき世界」演説でノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領が広島に訪問し、そこで、被爆者代表を抱擁し、真の和解を演出したのです。この仕掛け人が安倍首相です。

そして、安倍首相自身も真珠湾を訪問し、アメリカに向け、世界に向けて謝罪演説をします。その一部を紹介します。

「永続する平和を、われわれすべてのあいだに打ち立て、大切に守る任務をやりとげる」。

エイブラハム・リンカーン大統領の言葉です。私は日本国民を代表し、米国が、世界が、日本に示してくれた寛容に、改めてここに、心からの感謝を申し上げます。

あの「パールハーバー」から75年。歴史に残る激しい戦争を戦った日本と米国は、歴史にまれな、深く強く結ばれた同盟国となりました。それは、いままでにもまして、世界を覆う幾多の困難に、ともに立ち向かう同盟です。明日を拓く、「希望の同盟」です。

日本人の子どもたち、そしてオバマ大統領、皆さんアメリカ人の子どもたちが、またその子どもたち孫たちが、そして世界中の人々が、パールハーバーを和解の象徴として記憶し続けてくれることを私は願います。

 

この演説は2016年12月27日(日本時間は28日朝)に行われました。これらの外交努力があり、その結果日米が真に和解を達成することができたのです。この土台の上にトランプ大統領との信頼関係が構築されたことは言うまでもありません。

永続する平和を、われわれすべてのあいだに打ち立て、大切に守る任務をやりとげる」(リンカーン)――歴史も文化も違うし、背負っているものが違う民族、あるいは国同士が理解し合う、ましてや戦争をした当事国同士の和解は大変な努力が必要なのです。その努力を安倍首相は行ったことは間違いありませんし、それは評価に値することだと思います

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