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国家公務員試験のあり方も「総合的」「俯瞰的」観点からの見直しを / 地域の特色を生かした教育を創造する時代

  • 2020年11月19日
  • 2020年11月20日
  • 教育論
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「昨日の定期テストの話をしていて、科挙の試験を思い出しました」

女性

「科挙と言えば、中国の公務員試験ですよね」

「中国が有名ですが、朝鮮では、新羅、高麗、李氏朝鮮でも行われていました。両国の中央集権体制を陰で支えたのが国民から試験で選ばれた官僚達だったのです」

女性

「物凄く難しかったと言われていますが、……」

「合格できなくて、腹を立てた末に反乱を起こす人もいましたからね。洪秀全の太平天国の乱が有名ですが、それ以外にもあったのです」

女性

「そんなに合格しにくいのですか?」

「一番難関なのは進士科で、3000倍ということがあったそうです。合格の平均年齢が30の半ばで、中には受け続けて、70で合格した人もいたそうです」

女性

「ただ、難しいと言っても、記憶力試験なんでしょ」

「万巻の儒教関係の書物を隅から隅まで記憶していないとダメと言われています。そうやって難関な試験を課して官僚を採用したからといって、国力を増すことには繋がらなかったというのが歴史の教訓ですね」

女性

「試験やテストのあり方も、そういったものを反面教師としつつ考えるということでしょうか」

「そうですね、科挙は日清戦争後、清の末期の1904年に廃止されます」

女性

「何年くらい続いていたものなのですか?」

「約1300年ですね」

女性

「隋の時代頃からですね。何か勿体ない感じもしますが……」

「日清戦争で清は日本にあえなく負けます。日本では、そのような試験によって官僚を登用していなかったのに勝ってしまいます。科挙試験の無意味さが分かったのでしょう」

女性

「国家にとって必要な人材というのは、いざという時に知恵を出してくれる人ですが、科挙ではそれを発掘できなかったということですね」

「実は佐賀藩士の大隈重信は、そのような詰め込み勉強では、独自の考えをもつ人物を育てることが出来ないということで親の仇のように憎んだと言われています」

女性

「詰め込み勉強が国を弱体化させたということですね」

「今の日本の国家公務員上級試験は、かなり詰め込まないと合格できません。日本の科挙とも言われています。そのため、特定の大学からの合格者が多くなっています。内容も含めて、思案の時期でしょう」

女性

「ここからが本論です ↓」

 超難関の科挙が国を弱体化させることに

明治という時代をこよなく愛したのが司馬遼太郎氏ですが、彼は科挙に対しては批判的で「まことに中国も朝鮮も、むだなことをやりつづけてきたものだと思います」(『明治という国家』日本放送出版協会、1989年)とコメントしています。中国も朝鮮も中央集権国家でしたので、官僚を国全体から試験によって選抜することを考えたのです。

ここまでは良いのですが、テキストを儒教や朱子学といった特定の学問本に限ってしまいます。その瞬間に、1つの価値観(ドグマ)が国を覆うようになっていきます当時の官僚はエリートであり特権階級ですので、競争率が高く、自ずと出題が細かくなっていきます。重箱の隅をつつくような問題を用意することになります。そうなると、人間は考えることをしなくなります。考えていたら覚えることができなくなりますし、そうなると合格できなくなってしまうからです。ひたすら、記憶力ばかりを使うことになり、考えることを止めてしまいます

 

 地域の多様な教育が明治を骨太の時代にした

片や日本は各地に藩校、私塾、寺子屋があり、それぞれの地方の特色を生かした教育が行われていました。松下村塾が有名ですが、薩摩の郷中(ごじゅう)教育、会津藩の日新館での「什(じゅう)」教育、加賀藩の四民教導教育、土佐藩の教授館の選択重視教育など、実に多彩な教育が全国のいろいろな所で行われていたのです。司馬遼太郎氏は「この多様さは、明治初期国家が、江戸日本からひきついだ最大の財産」(前掲書、76ページ)と言っています。このように、それぞれの地域で教育を受けた人材が、明治の近代化を成し遂げる上で力を発揮することになります。そういう点でも、中国や朝鮮と対照的だったのです。

以下に、江戸時代の地域教育についての実例をいくつか紹介しますが、本来教育はそれぞれの地域の状況に合わせて行うべきものです中央集権的に検定教科書を使っての「一律一斉授業」という時代ではありません。工業社会ならいざ知らず、新たな価値を創りだしたり、新しいサービスを生み出す時代に入ってきました。AIを乗り越える人材を意識的につくる時代です

文部官僚が中心となって、一世代前の時代に合わない教育を無理やり推し進めるので、不登校、いじめ、ハレンチ教員の問題が年ごとに増えて、どうにもならないような状態になっています。「おらが邦(くに)」の先進的な教育の在り方の創造を、その地域の人たちに任せる時代です。かつての時代のように

 

 ア、鍋島藩――独立心が強く、信じた道をひたすら歩むという気風

大隈重信を生んだ佐賀の教育について見てみることにします。「佐賀人の勉学好き」と言われ、教育熱心な土地柄です。1923(大正12)年の調査ですが、国立大学や高専在学生の出身県を調べたところ、佐賀出身者が全国で一番多かったそうです。

最後の藩主であった鍋島閑叟[かんそう]の異常なほどの教育熱心さが大きかったという話です。とにかく当時の藩士の師弟は6、7歳になれば全員藩校へ通わされ、25、6歳でようやく卒業、つまり約20年間の教育を受けさせられていたとのこと。ただ、内容も難しく、その年齢になって卒業できなかった者もいたそうで、その場合は家禄の8割を没収されてしまうという厳しさだったそうです

鍋島藩は幕末、薩長、幕府のいずれにも属さず、ひたすら西欧に対抗すべく兵器・軍艦等の充実に心血を注いでいた藩として知られています。独立心が強く、信じた道をひたすら歩むという気風であったとのこと。司馬氏は「幕末、佐賀藩ほどモダンな藩はない。軍隊の制度も兵器も、ほとんど西欧の二流国なみに近代化されていたし、その工業能力も、アジアでもっともすぐれた『国』であったことはたしかである。」(前掲書)と書いています。

 

 イ、会津藩のエリート教育

会津の日新館では、会津藩士の子弟のみに限定したエリート教育が実施されました。当時の会津藩の上級藩士の子弟は、10歳になると日新館への入館を義務づけられ、15歳までは素読所(小学)に属し、礼法、書学、武術などを学びます。素読所を修了した者で成績優秀者は講釈所(大学)への入学が認められ、そこでも優秀な者には江戸や他藩への遊学が許されたのです。 実際の藩校は戊辰戦争で焼失したのですが、図面が残っていたため1987年に会津若松市河東町に完全に復元し、開館しました。研修、宿泊、武道の練習などで利用されているとのことです(「Wikipedia」参照)。

 

 ウ、薩摩の郷中教育

薩摩の郷中教育ですが、豊臣秀吉の朝鮮出兵時、出兵した武士の留守中、青少年の風紀が乱れたため、その対策として考案されたと言われています。呼称は、「ごじゅう」だと思ったのですが、地域によっては「ごじゅ」「ごうちゅう」と呼ばれているようです。中身は、地域の青少年による14、5歳から下は3才位の幼児までの自治的なグループ教育です。要するに、年長者(14、5歳くらい)がグループの年少者の面倒を見るのですが、このような「ガキ大将集団」は日本の各地に1970年代くらいまでは残っていたのではないかと思います。

 海遊び、川遊び、各種スポーツなど自然の中で遊びます。相撲や取っ組み合いの喧嘩もあります。喧嘩の時のルールや謝り方も教えます。知らないうちに、社会のルールを身に付け、人の痛みが分かるようになります。勉強は、早朝に誰かリーダー的な人間が、儒学や書道を教えてくれる人の家に行って学びます。その後、今度はそのリーダーの子供から他の子供たちに伝えて学びます。その際に、自分の意見を発表し、他人の意見と戦わせたりします。これを「詮議(せんぎ)」と呼んでいたとのこと。現在のディベート教育の走りのようなことを行っていたのです。

① 忠孝を重んじ、文武を励め。

② 礼儀をたしなみ、親睦、団結を心がけよ。

③ 山坂達者であれ。

④ 何事も詮議をつくせ、決まったら議をいうな、言い訳するな。

⑤ 嘘をつくな、弱音を吐くな、卑劣なことをするな。

⑥ 弱いものいじめをするな。 など

③の「山坂達者」とは、年長のニ才たちが稚児を引き連れて、山野を駆け巡り鍛錬するものです。この 遊びの中で、小鳥の捕獲の方法や野ウサギやイノシシ等の獣を獲るための罠の作り方や 薬草・毒草の見分け方などを年長者が実地に教えるのです。

 (「郷中教育」については「一般社団法人郷什塾ホームページ」を参照しました)

「明治はリアリズムの時代でした。それも、透きとおった、格調の高い精神でささえられたリアリズムでした。……」(前掲書 7ページ)と司馬氏は評価します。実は、そのような気高い精神を産み出したのは江戸期の各地での教育営為だったのです。

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