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日本は古代より象徴天皇制を採用している / 戦前の天皇は権力者であったというデマ

  • 2020年11月22日
  • 政治
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「先日、自民党の参議院議員の講演を聞く機会がありましたので、行ってきました。そこで「明治憲法は天皇主権」ということを言われたので、内心驚きました」

女性

「『産経』にも先日、小・中学生向きのページに、日本国憲法と明治憲法を比較する例の表を載せて、明治憲法のところに「天皇主権」としてありましたね」

「小学校の教科書から高校の教科書まで、そこに「天皇主権」と書いてあるので、明治憲法に直接当たらないでそのまま信じてしまう、ということが多いのです」

女性

「刷り込み教育の怖さですね」

「主権という概念は、もともとは西洋から入ってきた言葉です。西洋と日本とは国づくりの考え方が違うので、明治憲法では主権という言葉を使っていないのです」

女性

「国づくりの考え方の違いというのを簡単に説明してくれませんか」

「西洋は国家と国民を対抗関係の中で捉えます。日本は和の国ですから、同じ屋根の下の仲間という捉え方をします」

女性

「誰と誰が仲間なのですか?」

「天皇と権力者と民ですね。権力者はその時々によって違います。豪族や貴族であったり、武士であったりと歴史の中で変わります」

女性

「だから、単に国というのではなく、『国』プラス『家』なのですね」

「それを別の言葉で表現したのが、「和」だと思います」

女性

「そして、その家のシンボルが天皇ということですね」

「そうですね。その位置付けは古代から変わらず、それを今の憲法は象徴と言っていますが、適訳だと思います。ここで問題です。日本で最初に象徴という言葉を使った人は誰でしょうか?」

女性

「えっ、GHQが使う前ですか?」

「そうですね。津田左右吉という人が使っているのです。そのことを指摘したのが『象徴天皇の発見』を書いた今谷明氏です」

女性

「何て言っているのですか?」

「「国民的統合の中心であり国民精神の生きた象徴であられるところに、皇室の存在の意義があることになる」と言っています」

女性

「それは、どのようなところで言っているのですか?」

「戦後すぐの時期です。1946年4月発売の『世界』(岩波書店)の中で書いています」

女性

「GHQの憲法草案が出る前ですね。ここからが本論です ↓」




 象徴天皇制は古代から続いている日本の制度

「象徴」という言葉をどこから移入したのかということについて、「イギリスの政治学・憲法学説の中では、以前から国王の地位を説明する用語として「象徴」が使われており」(今谷明『象徴天皇の発見』文春新書、1999年) 、それを参考にして日本国憲法の天皇条項を起草したのではないかと言われています。イギリスの王室と日本の皇室は親睦的な交流が続いています。そんなところから、考え方、さらには言葉を借用したということでしょう。

ただ、イギリスの王室は権力の象徴でもあり、権威の象徴だったのです。日本の皇室とは違います。ただ、言葉を借用したということです

ところで、日本は権威と権力をどうして分けたのでしょうか。簡単に言えば、権力者は必ず狙われて打ち倒されます。ただ、人は権威に対して忖度し、それを守ろうとします。権力と権威に対するベクトルの向きが180度違うことを見抜き、これを国家統治のシステムの中に採り入れようと考えたのです。つまり、天皇を権威の象徴とすれば、時代が変わって誰が権力者であろうと打ち滅ぼされることはないだろうと考えたのです。そして、実際の歴史はそのように流れたのです

今、ちょうどNHK大河ドラマ「麒麟が来る」を放映しています。あの織田信長でさえ、天皇を敬愛し、崇敬したのです。

一方、大陸の中国では王朝が交替する時に、前の王朝関係者は基本的に皆殺しにされます。日本では出家制度とか島流しというのがあり、対抗勢力となりそうな人を殺すのではなく排除するシステムがありました。

 象徴天皇制がいつ確立したのか

その成立について、今谷明氏は幼帝の登場によって確立したと判断できると言います。最初の幼帝は清和天皇で、即位が9才です

「幼帝出現の意味は、天皇なる地位が、この段階では、成人たるを要せず、幼児でも務まる存在におおせたことを示している。政務は完全に議政局が権威と責任を以てとり行ない、ただ天皇には、日本国の時間(暦)と空間(国図/くにず)を支配しているという象徴として「鎮座」ましましているだけでよいというのが議政局面々の認識であったろう。こうして、名実共に、清和の即位は象徴天皇の登場つげるものであった」(今谷明『象徴天皇の発見』文春新書、1999年/92ページ)


幼帝を仮に満10歳以下での即位と定義をして、それに該当する天皇は、今谷明氏の調査によれば30人いるとのことです。中には生後7ヶ月での即位 (79代 六条天皇)もあったのです。これらのことは、天皇をどういう存在として先人が考えていたのかという、一つの手がかりになると思います。

平安時代で言うと、56代の清和天皇から82代の後鳥羽天皇までが該当するので、全部で14人います。ちなみに最後の光格天皇は、江戸時代の中期の天皇で在位期間は38年間に及びます。

ところで中国の皇帝はどうでしょうか。易姓革命思想の中国においては、皇帝は革命が起こらないように常に権力を強化しようとしたし、権力の象徴が皇帝でしたので中国で幼帝は原則として、あり得ないことでした。また、イギリス、フランス、ロシアにおいても幼帝は1人もいません。当然と言えば、当然かもしれません。皇帝は権力の象徴だからです。

唯一といっていい例外が、清朝最後の皇帝溥儀です。彼は2歳で即位して、少年期に辛亥革命のために皇帝の座を追われ、青年期に満州国の皇帝となりましたが、戦後は政治刑務所に入れられて一市民となり、最後は庭師として数奇の一生を終えています。

  日本独特の「権威と権力の分離原則」

日本の天皇制の本質は、数多くの「幼帝」の存在で分かるように、まさに権威の象徴です。権力はその時々の政治の表舞台で活躍した人間たちが競い合いました。太政官に権力を集中させたこともありました。武家がそれを握ったこともありました。いずれにしても、実際の政治は権力者が取り仕切ったのです。

このように日本独特の「権威と権力の分離原則」が古代から中世、そして近世において連綿と受け継がれてきたのです。ちなみに福沢諭吉は『文明論之概略』(岩波文庫/1995年)の中で、「至尊の考と至強の考とは自ずから別にして…」と、権威と権力の別を説いています。さらに「至尊と至強と相合一して人民の身心を同時に犯したることあらば、とても今の日本はあるべからず」と、権威と権力が一体となって人民を支配したならば、とても今の日本はあり得なかったと言っています

日本独特の「権威と権力の分離原則」は明治憲法にも貫かれています。明治憲法の改正手続き条項を踏まえて現在の日本国憲法が制定されています。

象徴天皇制という本質的な部分については、古代の天武期以来、実は何も変わっていないのです。

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