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中国、台湾への領土的野心を露骨にしめす ―― 台湾併合を祖国統一と表現 / 台湾発展に尽力したのは、日本の先人たち

女性

「中国共産党大会が始まりましたね。68歳という定年の慣例を破っての続投確実ということで話題になっていますけど、政権トップって、そんなに魅力があるものなのですか?」

「難しい質問をしますね。本来は定年引退にも関わらず、ルールを変えて残りたいということなので、当然何かを成し遂げたいという目標があるということでしょう」

女性

「台湾統一ですか? 仮にそうだとしても、後継者に任せれば良いと思いますけど……」

「それは我々の感覚ですが、指導者の中には、自分が先頭に立たなければ気が済まないという人がいますからね」

女性

「率先垂範という言葉はありますが、それは良い意味で使う言葉ですよね」

「彼らからすれば、台湾統一は民族の悲願であり、良いことという判断があると思います」

女性

「台湾の人からすれば、冗談じゃないと思っているかもしれませんよ」

「実際に思っている人が多いでしょう。これからは、硬軟合わせた様々な工作が本土政府によって行われると思います」

女性

「素朴な疑問ですが、欧米諸国が反対している台湾統一にどうしてそんなに拘(こだわ)るのですか?」

「簡単に言えば、指導者としての面子を保つためでしょう。プーチンがウクライナ侵攻をしたのと同じ心理状態ではないかと思います」

女性

「だから、2人は仲が良いのですね」

「仲が良いかどうかは分かりませんが、その行動原理をお互い理解できると思っています」

女性

「ここからが本論です ↓」

 台湾併合を祖国統一と表現

党大会の中で台湾統一について、祖国統一と表現していましたが、歴史的に見て、中国は台湾を殆ど領土として認識していたことはありません。かつて台湾の李登輝氏が「中国は美人を見るとすぐに取りたがる」と表現していましたが、台湾が魅力ある国土に生まれ変わったので、急に欲しくなり、そのための理屈が「1つの中国」、「祖国統一」という言葉なのです

今でこそ祖国と言っていますが、そもそも台湾島を一番最初に発見したのは、中国ではなく、ポルトガルです。16世紀の大航海時代にポルトガル人が台湾島を発見して、その美しさに魅了され「美麗島」(イリア・フォルモサ)と名付けたのです。祖国の祖は先祖という意味です。つまり、先祖代々大切にしてきた土地であり地域ということですが史実はそうではありません。

中国人の先祖は、台湾島は眼中になかったのです。何故なのか。一言で言えば、中華思想の国なので、海の向こうは野蛮人たちが住む所ということで、彼らの価値観からすると全く問題外の位置付けだったのです。下の地図で示したように、スペインやオランダが統治したこともあります。ただ、原住民の抵抗もあり、統治することに余り意味を見出せなかった彼らは、台湾を離れます。明、そして清も統治に前向きであったことはありませんでした。

(「Wikipedia」)

 

 台湾が歴史上の舞台に上がったのは日清戦争の時

1894年に日本と清が戦火を交えます。明治27年のことです。明治の時代に入って、日本は開国、そして近代化を急ピッチで進めました。1873年には徴兵制を導入し、1889年には明治憲法を制定、1890年には帝国議会を設立し、近代国家の歩みを着実にしてきた日本です。その国と、封建時代の残滓が多く残る国との戦いは、あっと言う間に決着が付いたのです。

清からしてみると、この敗戦はかなり屈辱的だったと思われます。普通に考えれば、そうでしょう。大国意識は当然ありましたが、海の向こうの問題外の国にコロッと負けてしまったのです。テニスのシード選手が名もない相手に0-6で負けてしまう様なものです。その位に悲惨な負け方をしたのです。

敗戦後、彼らは自問自答する日々だったと思います――「偉大な清帝国が、なぜ日本ごときの小国であり野蛮な国に負けたのか」。西太后は人材登用制度が悪いということで科挙制度を失くしてしまいます。

1995年に下関条約が結ばれます。これは清との講和条約です。当時の国際的なルールは敗戦国は戦勝国に領土と賠償金を払うというものがありました。これに基づいて、中国が日本に割譲したのが台湾島だったのです。清側の交渉に当たった李鴻章は、「台湾の統治は苦労するだろう」と不敵な笑みを見せたということです。彼らからすれば、良い厄介払いという感覚だったのでしょう

(「福岡県高校入試対策サイト」)

 台湾発展に尽力したのは、日本の先人たち

1995年から1945年の終戦までの50年間、日本は台湾を植民地として統治し、今の台湾の発展の礎(いしずえ)を築きます

その開拓の歴史を見ると、日本の先人たちの苦労は大変なものがあったと思われます。特に最初の10~20年は原住民のゲリラ的な抵抗に遭遇します。歓迎されないのであれば、異国の地のことはどうでも良いのでは、と思うこともあったのではないかと推察しますが、台湾に派遣された日本人たちは、我が事のように台湾の近代化に向けて働いています。

その代表的な人物は、何と言っても八田與一(よいち)氏でしょう。石川県出身で東京帝国大学卒業後、台湾総督府の技師となり、1920年から烏山頭(うさんとう)ダムを約10年の歳月を懸けて完成させ、台湾の嘉南(かなん)平野を台湾有数の穀倉地帯にしたのです。この八田氏の功績については、台湾の教科書でも紹介されていますし、ダム近くの高台には彼の銅像も設置されており、慰霊祭も営まれています。

日本が台湾の近代化に助力した後、中華民国の国民党政府が今の共産党政府に内戦で破れて、台湾に亡命政府を置きます。国民党政府も当初は独裁政権でした。そんなこともあり、台湾の人たちは「犬が去った後、豚が来た」と言っていたのです。

口うるさかったけど、忠実に仕事をしてくれた日本の先人たちを台湾の人たちは懐かしい想い出として語り継いでくれているのです。その台湾が、危機の時代に入ってきました。私たち日本人の関わり方がまた問われる時代となったのです。

(「Are You Happy?」)

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