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台湾と日本 ―— 清の台湾統治は消極的なもの / 教育に力点を置いた日本の台湾統治

  • 2023年12月19日
  • 歴史
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「台湾と日本との関係を歴史的に見てみたいと思います」

女性

「地図で見ると、沖縄の尖閣や石垣島、与那国島は台湾と余り離れていないのですね」

「日本の西端が与那国島ですが、そこと台湾は100km程度しか離れていません。そのため、与那国島から台湾の北部を見ることが出来ます」

女性

「ということは、前々から存在を知っていたはずですよね」

「14世紀末からの大貿易時代には、琉球人は中国の福建や東南アジアと貿易をしていたことが分かっています。途中の台湾の存在は当然知っていたでしょう」

女性

「近いけれど人種的には違うと聞いたことがあります」

「DNA分析に基づいて、石井望氏(長崎純心大学)は「縄文弥生人種が八重山を占領し、マレー系人種が台湾を占領」と言っています」

女性

「中国とは、どうなんですか?」

「台湾と中国は、まず人種的には明確に違います。そして、台湾に関して、実ははっきりした記録が余りないのです。元々、中華思想の国なので海の外の島に余り関心がなかったと思われます。7世紀の『隋書』には隋の煬帝が2度「流求」に遣使をし、3度目は派兵とあります。ただ、この「流求」が沖縄なのか、台湾なのか分かっていません」

女性

「公式的には、ポルトガルが台湾を最初に発見した国ということになっていますけど……」

「大航海時代の1544年に発見して「麗しき島」と名付けたと言われています。1626年にオランダの東インド会社が上陸して初めて測量をしています。その前の1597年にマニラ(現フィリピン)のスペイン総督府で描かれた台湾島図が20世紀になって発見されています」

女性

「ということは、中国が台湾を認識したのは、その後ということですね」

「台湾の語源は広東語の「タイワイ」から来ています。「タイワイ」の意味は台湾島西南部のことなので、中国は1つの大きな島ではなく、群島として認識していた可能性があります。一つの大きな島としての認識は琉球人(沖縄)たちによってなされ、その情報がマニラにもたらされ、スペインの台湾島図として描かれたという流れだと思います」

女性

「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「イーアイデム」提供です」

(2人の会話は、石井望「台湾全島の発見者 日本の琉球人だった」『八重山日報』2022.1.1日付 参照)

 清の台湾統治は消極的なもの

中国が台湾に対して関与をし始めるのは、清王朝の時代からです。ただ、それは積極的に開発しようというものではなく、反清勢力の拠点となることを防ぐためという軍事的理由からのものでした。1684年に福建省台湾府を設置します。

当時の台湾は原住民や首狩り族も住んでいて、騒擾(そうじょう)を繰り返す「化外の民」が跋扈(ばっこ)する未開の地だったのです。亜熱帯気候特有のマラリヤやコレラといった病原菌やそれを感染させるマラリヤ蚊が飛び、毒蛇も生息していました。衛生状態も当然悪く、清の官僚にとって気の重い任務地であったようです。

それでも台湾の肥沃な大地は大陸から見れば魅力的だったのか、少しずつ移住者も増えていきます。ただ、漢族の開拓の発想は、原住民を追い払った上での開墾であり、開発でしたので、当然原住民から抵抗を受け、その統治は苦難の連続だったようです。中国(清)が台湾の区画整理と人口調査を始めたのは、実に1885(明治18)年のことだったのです。台湾府を設置して約200年後のことだったのです。

(「化外の地-Wikipedia」)

 教育に力点を置いた日本の台湾統治

日清戦争の結果、下関で講和会議が開かれ、そこで台湾の日本への割譲が決まります。交渉にあたった清の李鴻章が日本はこれから苦労するだろうと呟(つぶ)やきながらニヤリと笑ったと言われています。ある意味、厄介払いができて良かったという感覚だったのでしょう。

第4代台湾総督として陸軍中将児玉源太郎が1898年に着任し、その総督を補佐する民政部門の最高長官が後藤新平でした。台湾経営の基礎を築いたと言われる人物です。中国の武断政治ではなく、現地の人たちとの共生統治でしたので、最初のうちは激しく抵抗されたもののやがて理解が広まっていくことになります。

後藤の治世下、台湾の植民地経営の基礎は急速に整えられていくことになります。土地・林野・人口などの基礎調査事業と並行して、多様な社会間接資本が整備されます。日本が領有した時点で台湾に住む約90%が文盲でした。清は単に植民地経営をしていただけなのです。

内地と同じ教育を施して同等の国民を育成する。先人たちは、それが実は回り道に見えて、最も簡単な統治であることを知っていたのです。50年の統治の時代に小学校1099校、中学校74校、高校1校、台北帝国大学(現在の国立台湾大学/下の写真)まで作ってしまいます。1944年には就学率が71%にまで達していたのです。台湾の人たちが日本のことを懐かしみ、親しんでくれているのは、こういった先人たちの、かの地での功績があるからです。

(「レトロな建物を訪ねて-エキサイトブログ」)

 日本統治期の学校を私財で修復

台湾の実業家の蔡衍栄さんが私財を投じて、自分の出身小学校の校舎を改修して、日本統治時代の建物を復活させたことが話題になっていることを沖縄の地元紙の『八重山日報』(2022.12.23日付)が報じています。

蔡さんの長男も同校の卒業だそうです。赤レンガ造りの回廊がある校舎を気に入っていて、それをどうしても残したいということで台北市に寄付を申し入れ、約3万7千枚の赤レンガを調達して修復したそうです。実際には、全て取り壊して立て直した方が安上がりだったそうですが、敢えてかつての時代のものを残したいということで修復したとのことです。

校舎の修復の後、温水プールと音楽ホールも赤レンガを用いて建設し、そのまま市に寄付したそうです。総工費が10億円以上かかったそうです。近年台湾では、日本の統治時代の建物を残そうということで、修復されるケースが増えているそうです。

(「GoGoザウルス」)

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