「誰も言わないけれど、このままだと日本は台湾に抜かれてしまうのではないかと思っています」
「えっ、それはどうしてですか?」
「このまま、何も軌道修正がないとすれば、という条件付きですけどね」
「理由を具体的に言って頂かないと……」
「一言ではなかなか言えませんけど、いろんな指標をあげて検討すると余り良い結果が出て来なかったのです」
「今、日本はSDGsの指標を掲げて国、自治体そして企業もそれに向けて取り組み始めたと思っているのですが……」
「そこに大きな落とし穴があると思っています。その指標が、絶対的に正しいと思い込んでしまうというのが、大きな落とし穴です。例えば、ジェンダー平等というのがありますが、平等の考え方は日本と欧米では違います」
「なる程、それ以外で気になる点がありますか?」
「SDGsは共産主義国家でも対応ができます。それがヒントです」
「えっ、全然見当がつかないんですけど……。中国は対応しているのですか?」
「対応どころではなく、実は日本よりもSDGsを真剣に捉えているかもしれません大都市の大気汚染や水質問題など、中国も真剣に取り組まざるを得ない問題がいくつかあるからです」
「SDGsに入っていない指標で、大事な指標というと何でしょうか……」
「私が思っているのは、多様化です。多様化こそが、発展の原動力だと思っています」
「多様化社会(多様性社会)の実現のために、ジェンダー平等が唱えられているのではないでしょうか?」
「それは違うと思います。男女平等と多様化とは、全く違った概念ですし、関連性もありません。だから、仮に男女平等社会が実現したからと言って、多様化社会になっているとは限りません
」
「ここからが本論です ↓」
多様性社会を実現するためには、多くの言語を認めること
日本は明治の開国から数えて約150年、この間に多くの言葉を棄ててしまいました。
どういうことか。戦後になって、文語体をなくしました。戦前までは、公文書などでは文語体が使われていのですが、戦後の国語改革により、話し言葉に近い書き方を書類に使うようになりました。そして、都市化が進む中で地方の方言が無くなりつつあります。沖縄県は地域によっては、小学校で方言教育を行っています。方言で作文を書かせて、コンテストまでありますが、それ以外の県ではそのような実践をしているところはないと思います。
現代人は、昭和の初期に書かれた文章をもうすでにきちんと読めなくなっています。明治時代に制定された大日本帝国憲法も読めなくなっています。
実は台湾は、他民族が共存する社会なのです。政府が認定しているだけでもアミ族、パイワン族など16の民族があり、それぞれ独自の言語と文化をもっています。言語だけで20以上の異なる言語があり、台湾で電車に乗ると、車内のアナウンスはその地域の言語に合わせて複数の言葉で順番に流れるそうです。日本の場合は、英語、中国語と他国の言葉を流していますが、方言を流せば車内も和むでしょう。
台湾は歴史の間(はざま)の中で、国際社会の中で複雑な立場に置かれています。第二次世界大戦後に国共内戦で敗れた蒋介石の中華民国政府(国民党)が、100万人以上の人々と共に台湾に逃れてきました。中国語(北京語)を話す彼らを現地の人たちは「外省人」と呼びます。中華民国政府が中国語教育を進めたため、中国語が主流ですが、先住民の言葉も使われ、消えずに残っています。
台湾の一番高い山は新高山ですが、先住民族はその山にそれぞれ異なる名前を付けています。言葉が違うということは、その言われやその山に対する感情も違っています。人間は言葉で考える動物ですが、そのように多くの言語に囲まれて育っているうちに、多面的な方向から考えてみるという習慣が身に付くと思います。
(「Yoji Yanagisawa Yoji Yanagisawa 」)
方言のもっているパワーを使って、多様性を引き出す時代
日本の場合は、明治時代に文部省が標準語を作り、学校教育を通して、その言葉が浸透し、それに合せて地方で使われていた方言が消えていきました。そのことの評価と検証は行われていませんが、多様化という観点から見た場合は、マイナスだったと思っています。
昨日の『産経』(2021.4.30日付)に「ふるさとの言葉」というエッセーが載っていました。投稿されたのは、64歳の教員をされている方です。紹介します――「……『心配せんでよかよ。私がお母さんの面倒ばちゃんと見とるけん』と言ってくれた。広島に住んで30年近くになる。広島弁とその文化にもなれて、広島は第二のふるさとになっている。しかし、やっぱり、熊本弁は私の心を温めてくれる。熊本駅でローカル線に乗り換えて、空いている席に座ると、子供たちの声が聞こえてくる。『ここ、あいとっと?』『うんにゃ、こことっとっと』このやり取りだけで幸せになる。……」。多分、この会話を標準語に直すと、味も素っ気も、何も面白みがない文章になると思います。
方言がもっているパワーが多様性を引き出すことに気付く時だと思います。まだ、間に合います。
(「子供と一緒に楽しく遊べる手作りおもちゃ♪」)
21世紀は「多様性」が鍵を握る
バイデン大統領は、これからは民主主義と専制主義の対決になると言いました。政治的にはそうですが、本質的には多様性を認めるか、認めないかということです。冒頭の2人の会話にもありましたが、SDGsの中には「多様性(多様化)」が入っていないのです。そのため、共産主義国の中国でもSDGsを率先して取り組めるのです。
人は時には自然から学ばなければいけないと思っています。自然界を見ると、実に多くの命が息づいているのが分かります。都会でも目を凝らせば周りの自然の緑の中に、植物や鳥や虫といった多くの生き物たちが生息しています。地球規模で考えると、何千何万といった多くの生き物が命をつないでいます。この多様性こそが、この地球の生命の輝きを生んでいることは確かです。
人間も自然の中の存在物なので、同じです。人間が他の生き物と違うのは、一人ひとり顔かたちが違い、個性があることです。これをほぼ丸ごと認めるような社会を作ることが望ましいのです。「ほぼ」としたのは、個別具体的にすべて認めることはできないからです。それをしたならば、社会が成り立たなくなるからです。ある程度の固まりという意味を込めて「ほぼ」と表現をしました。具体的には、国、民族、部族ということになると思います。
共産主義は「多様性」を認めません。一つの価値観で社会を染め上げようとします。民族や言語の多様性も認めないので、ジェノサイトという発想をしますし、思想犯を取り締まるということを考えるのです。こういう社会は「不自然」なので、早晩崩れることになるでしょう。少なくとも、そういった考えの国には近づかないことです。
日本は民主主義社会ですが、「多様性」という観点から見ると、一番輝いた時代が江戸時代の後期です。世界の奇跡と言われた明治維新を成功裡に収めた秘密はそこにあります。
(「ニッセイ基礎研究所」)
ところが現在は「多様性」が不充分で硬直化が進んでいます。その原因の大きな要因は、言葉にあると思っています。そして、第二の要因は教育にあります。日本の教育は、文科省を頂点とした中央集権教育体制が約150年続いていますが、これが日本の社会の硬直化を進めています。いじめや不登校が増えるのは、ここに原因があるのです。検定教科書に基づいて、全国一斉の一律教育を受けることに慣れてしまって、これが当たり前という感覚だと思いますが、その常識に疑問を投げかける時代に入ったと思います。
令和の時代になり、国際競争は激しさを増すばかりです。台湾のように多様な価値観が生まれるような社会をつくることが重要となります。その社会を土壌にして多くの優れた人材が輩出されていくと思います。日本はSDGsも良いのですが、それよりも「多様性社会」を目指しつつ、台湾との絆を深めるべく努力をすることです。本音では、その台湾と仲良くなりたいのに、「中国恐怖症」という病気のためにそれが言い出せない弱気な日本になっています。
いつまでも弱気では、叩かれ続けることになります。殻を破って、大人の行動をする時なのです。幸い、今ならアメリカも一人立ちを応援してくれます。
読んでいただき、ありがとうございました。
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