「『資本主義の新しい形』(諸富徹.岩波書店)という興味深い内容の本が最近出版されました」
「「新しい形」というのが、ピンと来ないのですが」
「従来の生産ということに対して、一つの固定観念をもっていると、なかなか理解しにくいと思います」
「もともと、そんなに頭は柔らかくないので、すいません具体的に説明していただくと有難いのですが……」
「そもそも資本主義の『資本』の意味は分かりますか?」
「えっ、何でしたっけ? 高校政治経済で勉強した記憶が……。土地ですか?」
「土地、工場、機械設備など生産に必要なものです」
「思い出しました。だから、資本金という言葉がありますものね」
「そうですね。それらを用意するためには、ある程度の資金、つまり資本が必要です。ただ、それは今までの発想であって、これからはそういう時代ではないということです」
「この前、このブログでも話題にしましたが、ポスト資本主義の時代ということですよね」
「そうですね。最近は現在の資本主義はどこへ向かうのか、といった問題意識のもとに書かれる本が増えているのです」
「冒頭で紹介された本も、そういった本のうちの一つなんですね」
「ただ、この本の著者は資本主義の向かう先をすでに知っています」
「えっ、そうなんですか!何ておっしゃっているのですか?」
「彼は「資本主義の非物質主義的転回」という言葉を使っています」
「あのを……。どうして学者さんは、いつも難しい言葉を使うのですか?理解できないんですけど……」
「簡単に言えば、その主舞台を宇宙も含めた空間に移動しようとしているということです」
「すいません、全然簡単になっていないのですけど……」
「例えば、従来はある一つの目的のために製品が作られました。服を洗うための洗濯機、モノを冷やすための冷蔵庫、話をするための電話という具合です。例えば、その電話にコンピューターを組み合わせて「スマホ」をつくり、端末としての機能をもたせることにより各種サービスやデータを共有できるようにすることにより新たな価値を付けたのです」
「なるほど、何となく今の説明で少し分かりました。ここからが本論です ↓」
21世紀は、専ら「無形資産」が価値を生み出す担い手となる
諸富徹氏の言葉を最初に紹介します――「資本主義の価値の担い手が『物質的なもの』から『非物質的なもの』へと移行することを指している。経済成長を牽引するのは『物的資本(有形資産)』から『無形資産』(知的財産、ソフトウェア、組織、ブランドなど)の蓄積に移行する」(諸富徹 前掲書.「はしがき」より)と言っています。
先に、スマホを例にして説明したのですが、スマホが単に携帯電話だけの機能しかなければ、これほど普及はしなかったでしょう。要するに、単に通話できるから利用しているのではなく、インターネットやゲームなどSNSを享受することができるので、一気に普及したのだと思います。
つまり「物的資本(有形資産)」というのは、携帯電話です。そこにコンピューターを組み込むことによって各種「無形資産」を利用者は手に入れることができたのです。そして、スマホ利用者の多くは、元々の電話機能よりも、後から付いてきた各種サービスが気に入って契約を継続しているのだと思います。
資本をめぐって対立する時代は終わりを告げる
資本主義の「資本」というのは、生産をするために必要な物質的条件なので、具体的には土地、工場、機械設備といったものを指します。資本金という言葉があるように、それは何かモノを生産する時に必要な支度金です。それに労働力をかけ合わせれば製品が作られます。
ただ、それは従来の資本主義の発想です。その考え方自体が、過去の遺物になりつつあります。そして、そこにこだわっていると、時代の流れに乗り遅れることになりますし、実際に旧来の発想のまま過ごしてきたために日本は乗り遅れてしまっています。
早く、そういった古典的な生産活動の観念、いわゆる「資本論」の発想から抜け出ることが肝要です。ポスト資本主義社会の時代になりました。その実像がはっきりしなかった頃は、社会主義を主張していた方もいましたし、現在もいますが、「マルクス主義社会は次代の社会たりえないことを誰もがしっている」(PEドラッガー『ポスト資本主義社会』ダイヤモンド.2007年/5ページ)ような段階だということです。
21世紀のこれから展開する社会は、「反資本主義社会ではない。非資本主義社会でさえない」(PEドラッガー 前掲書.9ページ)と言います。その「主戦場」が変わるだけです。そのため、「資本主義の主要機関は残る。銀行をはじめとするいくつかの機関も、これまでとは異なる役割を担うようになるかもしれない。だが、生き残るだろう」(PEドラッガー 前掲書.9ページ)と言います。
マルクスが『資本論』を書いてから約150年の歳月が流れています。資本を持つ者と持たざる者との対立の時代は、当初予定した筋書きとは違った形での展開を見せ、ここに来て別れを告げようとしています。
21世紀、アイディア勝負の時代
21世紀の時代は、資本を持つことが殆ど意味がなくなると思います。実際に現在、日本では資本金が0円でも会社を起業できます。資本がなくても、契約によって借りることが出来れば、モノも生産できますし、サービスも提供できます。
例えば、タクシー会社と契約して配車サービス専用の会社を立ち上げ、乗客を集めることができれば会社として成り立ちます。また、自動車といった多くの部品が必要なものでさえ、工場をもっていなくても組み立てて、購買者に届けることは理論上可能です。
どうするのか。客から注文を受けます。それを元に部品会社に注文をして、組み立て工場に部品を送ってもらいます。そこで組み立てて、それを注文者に届けます。客からの注文を取り、それを部品会社に一斉に連絡、その組み立てを指示して、配送までを手配するという、いわゆるマネージメント会社であれば、大きな工場がなくても自動車の注文を受けることができます。要は、アイディア勝負の時代が来たということです。
知的な人材をいかに育成、そして養成するか
そのため、ドラッガーの著書の最後は教育論で締められています。章立てだけを紹介します。「知識の経済学」「教育の経済学」「教養ある人間」です。これからはアイディア勝負の時代なので、知的な人材をいかに社会として育成、養成するかが重要となります。
それは逆にいうと、今まで製造業で築いた富に胡坐をかいていると、あっという間に没落する可能性すらあるということです。そして、逆に経済発展という言葉が無縁であったような国が、教育システムの開発によって優秀な人材を創出することが出来れば、経済大国になることもあるということです。
ドラッガーは言いますー―「今後10年ないし20年のうちに、今日貧しく遅れた第三世界の国々の多くが、ほとんど一夜にして奇跡の国として急成長を遂げ、経済大国へと変身する可能性は高いと見ている」(PEドラッガー 前掲書.17ページ)と。
日本の政府は、教育は二の次といった政策をとり続けています。これからの時代、価値を生むのは、きちんとした教育を受けた人間だということが、分かっていないのです。今の学校は、大学も含めて勉強だけ教えて終わりになってしまっています。きちんとした人間として育てようとしていません。「教」があって「育」がないので、様々な問題が起きるのです。
読んでいただき、ありがとうございました。
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