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「大学全入時代」―—大学の劣化が進行している / 「マークシート入試」からの転換を

  • 2020年8月7日
  • 2020年8月7日
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女性

「全国大学生協連合会が、全国の国公立と私学の大学生の1日あたりの勉強時間についてのアンケート調査(2019.10~11月)を行ったそうです」

「どんな結果でしたか?」

女性

「学習時間が総じて少なくなっています。大学生の1日の学習時間約48分という数字が出ています。ちなみに大学4年生は63分ですが、5年前と比べると28分減っています」

「学生というのは、学んで生きると書くのですが、皮肉なことに余り学んでいないということでしょうか?」

女性

「そうですね、経年で統計をとっているのですが、どの学年も学習時間は短くなっています」

「学習時間が一番短いのは、どの学年ですか?」

女性

「大学1年です、平均約40分という数字が出ています」

「大学が全入状態なので、これは仕方がないのかもしれませんね。ただ、実は大学院の博士課程に進む学生の数は逆に減っているのです。これも由々しきことと考えています」

女性

「要するに、大学生は増えているけれど、大学院の博士課程の学生は減っているということですね」

「そうです」

女性

「大学というのは本来的に学問をするところですが、就職の「足場」、つまり社会に出るまでのワンステップとして考えている人が増えたということではないでしょうか」

「文明というのは時代とともに高度化するので、本来的な数字の出方とは逆の出方をしているということです」

女性

「ただ、その辺りのことについては、日本の研究者から抜本的な対策が必要という声が出ているのですよね」

「そうなんです。2003年度をピークにして減少傾向が続いていて、2016年にノーベル賞を受賞した大隈良典氏はこれを何とかしないと「日本は本当にだめになる」と言っています(「国を挙げ博士養成を」『日経』2020.2.3日付)」

女性

「ここからが本論です ↓」

 大学が学問の府ではなく、就職ステップ機関になり下がっている


大学が何のために存在するのかについて、政治家も学校の教員、さらには大学関係者、殆どの方が分かっていないのではないかと思います。高校の延長で大学を捉えてしまっている方が多くいますが、性格、目的ともに全く違う機関です

高校までの勉強というのは、常識を学ぶことです。人類が長い間かかって得た「真理」を理解し覚えるために学校で時間を過ごします。答えは基本的に1つなので、それを覚えたか、理解できたかという基準で子供たちの「学力」を点数化します。ただ、それはあくまでも、記憶や理解に対する判定に過ぎません。

大学での学問は、それまで学んだきたことを自分なりに深めることを行います。そこには学んできた常識を疑うことも含んでいます。学問の世界では、答えは1つとは限りませんので、点数化は基本的になじみません

憲法でも、その適用条文が違います。勉強については26条の教育を受ける権利が適用されますが、学問については23条が適用されます。

そのように性格の異なった機関なのに「高大連携」という奇妙な言葉が流行っています連携を考える必要は全くないのです。そもそも、勉強と学問は視点が違います。従って、勉強はできる人が学問ができるとは限りません。「高大連携」という言葉が蔓延すると、その辺りを誤解する子供たちが増えます。そのことを危惧しています。

また、教育現場でここ近年使われ始めた言葉として「アクティブラーニング」(=主体的で対話的で深い学び) なる言葉があります。これは、「勉強の世界」で使う言葉ではなく、「学問の世界」で使うべき言葉です。実際に、大学の授業改革のために提案された言葉であり、それが一人歩きして、場違いな高校や中学、さらには小学校でも言われ始めたのです

「アクティブラーニング」提案者である鈴木寛氏は「アクティブラーニングというワンパターンの学びを押しつけようとする動きがある。アクティブラーニングが唯一の学び方だと捉えられてしまうことを、とても危惧しています」と言っています。

ある程度の技能を身に付けた選手ならば、自主練でも良いでしょう。基礎も基本もよく分かっていない選手に自主練をさせても却ってマイナスの場合が多いでしょう。同じ理屈です。

 

 大学入試は、各大学の責任において手間暇をかけて行うべきもの

文科省が推し進めてきた大学入試の方向を言葉で言うと、多様化から一律化という、まさに真逆の方向に突き進んできたと言えます。もともと、個々の大学で行われていた入試だったのですが、国公立大学を対象にした共通一次試験の導入から始まって、センター試験、さらには今年度の大学共通テストと、一律化の方向に歩んできました。

受験者数が多いため、マークシートが採用されますので、記憶力と理解力を判断する入試に専らならざるを得ません。つまり、その分野の学問的な素養があるかどうかが全く分からないような入試を経て、大学に入学をしてくることになります。

だから当然、ミスマッチが起こります。高校生も自分の適性を見つめることをせずに、自分の取った点数と大学の偏差値を見比べて、どの大学に行くかを決めます。高校で進路指導もしますが、思わず高得点を取ってしまった場合、当初の希望を簡単にやめて、偏差値が高い学部に鞍替えをするのはよくあることです。そうなると、そこでの専門が合うか合わないか、まさに偶然に懸けるようなものです。50万人の受験生の将来、そこには国の将来も掛かっています。そのような、入試をいつまで行うつもりなのでしょうか。

入試に手間暇をかけて、各大学の責任において行うという、当たり前の姿に戻して欲しいと思います

志望動機、入ってからの学習計画、専門分野の中で特に何を学びたいのか、その理由、それを思い立ったきっかけは何か、自然や社会についての問題意識など、聞くことはいくらでもあると思います。それを記述させます。その生徒の学問的素養が、かなり詳しく分かります。受験生も、そういう試験を経験する中で、自分の適性を見つめることができます

 

 「マークシート入試」では、学問的素養をみることはできない


マークシート入試なので、どうしても型に当てはめてようとします。そんなことから、問題にまつわる笑い話が生まれます。「この時の作者の気持ちとして、どれが正しいか。①~④の中で正しいものを選びなさい」とあるので、その小説の作者は①から④まですべてに〇を付けたそうです。入試の場合は、答えは1つと決まっていますので、×ということになります。

また、ある哲学者の文章がやはり大学入試に出されたそうです。設問は「問題文を2つに区切るとすると、どこで切れば良いか、①~④の中で正しいものを選びなさい」という問題を見て、「どうして2つに区切らなければいけないのか」と設問自体を問題にしていたとのことです。

2つに区切るという前提で答えを出すのは、勉強の世界です。哲学者はどうして区切らなければいけないのかと、学問的な問題提起をしていのです。だから、大学の入試問題として出すならば、「その問題文を2つに区切って読むという考え方があるが、その意見に対して、あなたはどう思うか。批判的に検討しなさい」とするべきでしょう。そうすれば、哲学者も満足する出題となります。

お勉強の延長のような出題しかできないようなマークシート入試は、21世紀の時代に相応しいものとは言えません

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