「前回は現代の難民問題を扱いましたが、今日は歴史を紹介したいと思います。ローマ帝国の時代です」
「随分古い話ですね。私は世界史が苦手だったんです」
「女性の方はそういう人が多いのです」
「時間と空間がごちゃごちゃになってしまって、訳が分からなくなるのです」
「そんなに複雑な話はしませんから大丈夫です。ローマの場所は分かりますよね」
「その位なら大丈夫です。イタリアのローマには観光で行ったこともありますから」
「もともとは都市国家から出発しています。現在のローマが帝国発祥の地です」
「帝国ですから、かなり大きくなったんですよね」
「地中海沿岸地域を殆どすべて勢力下に治めます。ヨーロッパから中東、北アフリカにまで広がる巨大な領土を500年以上支配します」
「やがて2つに分裂するのですよね」
「子どもに分け与える為に、帝国を東西2つに分けます」
「国を分けると大体ロクなことはありませんよね」
「おっしゃる通りですが、ゲルマン民族の大移動は375年から始まっています。帝国内が混乱をし始めて、395年に分割します。ローマを首都とする西ローマ帝国は混乱のうち滅亡します。476年ですね」
「約80年の命だったのですね」
「ゲルマン民族の大移動という言い方で習ったかもしれませんが、要するにゲルマン系の大量難民が帝国内に流れ込んできたのが原因で崩壊するのです」
「民族大移動と難民の大量発生では、イメージが全然違いますよね。ここからが本論です ↓ 表紙写真は「はなぷるSTORY-FC2」提供です」
難民問題がEU脱退に発展
2015年は、EU諸国にシリア、アフガニスタン、イラクなどから100万人を超えるイスラム系の難民が押し寄せました。この人たちの受け入れを巡って、EUは対立をします。積極的に受け入れを表明したのは、ドイツです。労働力確保の思惑があったと言われています。そのため、多くの国から批判を浴びます。
イギリスは基本的には受け入れ反対です。人道的な問題ではありつつも、国内の治安の悪化や宗教の問題が絡みます。国民投票まで行ってEUを脱退します。
(「東海大学新聞」)
何の準備もしないまま帝国内に受け入れた―― ゲルマン民族
ゲルマン民族の大移動は、ローマ帝国の国境の北側に住んでいたゲルマン民族が遊牧騎馬民族の攻撃を避けるため、帝国内への移住許可を求めてきたことから始まります。当時の皇帝が兵力不足を彼らによって補おうと考えて、許可をしてしまいます。その結果、約20万人のゲルマン民族が帝国内に流入します。当時のローマ帝国の人口は5千万から6千万人だったと言われていますので、日本で言えば40~50万人の人が他国から国内に移住することになります。
他民族なので、言葉が余り通じない上に、宗教も違いますし、そもそも住居や食料の手当てをどうしたのかと思います。帝国内で不自由な生活を強いられますので、彼らの中にも不満が鬱積(うっせき)して、結局武装蜂起をします。その軍団と一進一退の長い戦いをした挙句に、帝国内の土地を彼らに分け与えた上で居住(市民権)を認めます。そういうかたちで一旦は妥協し、落ち着きます。
(「不思議の国のアリス」)
難民が武装闘争をする中で西ローマ帝国は滅亡
テオドシウス帝が没して、帝国は東西に分裂、反目をし始めます(395年)。これを機にゲルマン民族が動き始めます。さらに、それに呼応するかたちで、ヨーロッパ内の他の民族、例えばヴァンダル族、アラン族、スエビ族、フランク族などが蜂起をし、荒らしまわります。
そのうちゲルマン民族は410年にはローマ市を占領してしまいます。そういう中で、ローマ帝国は各部族を「同盟部族」ということで受け入れてしまいます。つまり、軍隊に従事するという条件で、土地と居住権、そして部族の自治権が与えられることになります。まさに群雄割拠の時代となり、力が支配する社会になってしまったのです。こうなると各部族は、軍隊の従事義務など無視を決め込み、自分たちの領地を拡大し始めます。ということで、帝国内の土地は各部族が切り取るようにして奪っていきました。
ローマ帝国の最期の皇帝は、ゲルマン人の軍隊長によって廃位とされ、その瞬間に西ローマ帝国は滅亡したのです。ゲルマン民族がドナウ河を渡って、ローマ帝国内に入ってからちょうど100年目の出来事だったのです(476年)。
難民政策は一歩間違えると、国を滅ぼすことに繋がるということです。人道問題だということで、積極的に受け入れを主張する人もいますが、大事なのは受け入れ態勢です。「日本人」として自立した生活ができるようにする態勢です。文明国できちんと生活できるような態勢を作る必要があります。それが殆んど出来ていません。
(「歴ネタまとブ」)
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