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「手続き的知識」の獲得を家庭教育の中に位置付ける / 「手続き的知識」が顧みられなくなった時代

「心理学の用語に、宣言的知識と手続き的知識というのがあります」

女性

「知識にも2つの種類があるのですか?」

「その違いを簡単に言うと、頭を使って得る知識(宣言的知識)と体を使って得た知識(手続き的知識)の違いということなのです」

女性

「宣言なんて言われると難しそうだけど、意味的には大したことはないんですね。体を使って得た知識というのは、具体的には、鉛筆だとかナイフの使い方ということでしょうか」

「そうですね、この道具は「こうやって使うもの」という使い方を知らなければ使えませんよね。そういった知識全般を手続き的知識と言います。」

女性

「今日、2つの知識について、敢えて話題に出したのは何か問題意識があるのですか?」

「最近の傾向として、宣言的知識ばかりに目がいってしまって、手続き的知識の獲得について関心が払われていない風潮があると感じたからです」

女性

「何か、気になるようなことがあったのですか?」

「ええ、勤務校で生徒に封筒を渡して、書類を送るように指示したところ、住所、学校名、教員の名前を書いて、裏に自分の住所、氏名を書くということが出来ない生徒が半分以上いたのです」

女性

「本当の話ですか?」

「勿論、本当です。封をしなかった者、封をガムテープでした者、学校名を書かなかった者、自分の住所、名前を書いていない者などです」

女性

「凄まじいですね。学年は中一ですか?」

「高校3年生だから、あきれているのです。要するに、全く郵便を出したことがないので、そういうことが起きたのですね。一番の究極は、表側に郵便切手だけ貼って出した者もいたのです」

女性

「よく届きましたね」

「下に学校名と住所があらかじめ印刷されている封筒を渡してありますので、郵便局はそこに配達するしかなかったのだと思います」

女性

「そういう衝撃的なことがあったので、今回の話題が出てきたということですね。ただ、学校生活の段階では、笑い話で済みますからね」

「社会全体が手続き的知識を軽視してきた、なれの果ての出来事だったのではないかと思ったのです」

女性

「成る程、ここからが本論です ↓」

 「手続き的知識」の多くは、家庭で習得されるべきもの

手続き的知識というのは、習得に時間が掛かります。そして、その内容が極めて具体的なため、習得において個別性が求められることが多いのです

2人の会話の中で、最後に話題となった封筒の住所の書き方は、これは本来的に各家庭で指導して習得させる手続き的知識です。学校のカリキュラムの中には、封筒の書き方を教えるという内容はどの教科を探してもありません。盲点と言えば盲点かもしれませんが、そんなことは当たり前のこととして誰もが知っていたことなのです。

そういうことが出来ていないということは、それまでの成育過程の中で本来家庭レベルで教えておくべきことも、その程度であるだろうということが予想されます。

 幼児期や小学校の低学年時での「手続き的知識」の取得が極めて重要

例えば、砂場で「山」や「団子」を作るといったことは、手続き的知識があると上手く作れます。乾いた砂をいくら積み上げたり、丸めようとしたりしても上手くいきませんが、そこに水を足すことによって大きな「山」や「団子」ができます。どの位の水を加えれば良いのかということも、実は手続き的知識なのです。昔の人は、これを知恵と呼んだのです。

知恵と知識はどう違うのか。知恵は発展性をもっていますが、知識はそれ自体の発展性はありません。宣言的知識というのは、基本的に1対1対応なのです。つまり、江戸幕府をつくったのは徳川家康、鎌倉幕府は1192年というように、一つのかたちに入れられているイメージです。

そのような結び付きは、頭の中で簡単に出来ますので、時間と根気さえあれば記憶させることは容易です。だから「バカの一つ覚え」という諺が生まれたのです。

それに対して手続き的知識の習得は、手間暇がかかります。ただ、一度習得してしまえば、多分死ぬまで体に染みついて離れないと思います。何故か。これは人間に限らず、動物の筋肉に記憶装置が組み込まれているからです。だから、幼児が一度歩き始めたら、それを忘れることはありません。鳥も一度飛べるようになれば、そこからは常に飛べるようになります。

ただ、動物の手続き的知識の習得は、あくまでも生き抜くためのものです。人間の場合は、もちろんそういった部分もあるのですが、宣言的知識を繋ぎ合わせる作用を持っていると思います。ここで思いますと言うのは、学会の定説ではなく、私論だからです

手続き的知識が、どのように宣言的知識を繋ぎ合わせるのか。そのメカニズムについては、脳科学の成果を踏まえて、緻密な研究が必要なのではないかと思っています。

だから、あくまでも感覚的なことしかここでは言えないことを予めご承知おき下さい――手続き的知識が増えると、立体的な認識能力が広がっていきます。脳内に多くの網の目が広がるようなイメージを持ってください。その中に、一つひとつの断片的な宣言的知識が絡みつきます。そうすると、平面的には結び付くはずがない知識どうしが、立体的に結び付くということも出てきます。新たなアイディアの誕生です。

これも私論ですが、AIロボットと人間の大きな違いは、今のようなことが「脳内」で出来るか出来ないかの違いではないかと思います。AIロボットは、宣言的知識を正確に覚える作業は、人間以上です。手続き的知識もプログラミング出来ますので、これも人間以上に正確かつ忠実動きます。2つの面で人間より優れているのに、どうして人間を超えることはできないのでしょうか

その理由は、先程書いた通りで、人間は2つの知識が有機的に脳内で自然に繋がっているからです。AIロボットには、それがありません。その違いだけだと思っています。

 「手続き的知識」を学校教育の中で教える時代に

これからAIとの共存時代に入っていきます。AIの後を追いかけるような人間を育てても仕方がありません。AIを常にリードできる人材を育成する必要があります。どうすれば良いのか。

答えは極めてシンプルなものです。手続き的知識を増やすことです。そして増やすためには、子供と個別具体的に接する場面を出来るだけ多くして、その知識というか体験を増やして上げます。体験が具体的に思いつかない場合は、近くの公園に連れていって、砂場で一緒に遊んであげる、森や林に入って、昆虫採集でも観察でも良いと思います。

そういった経験が、今の子供たちには大変少ないと思います。仮に手続き的知識をそのまま等閑(なおざり)にして、宣言的知識だけを詰め込んで高い学歴を得たとしても、バランスが悪い人間に仕上がってしまうでしよう。そうなると、自分が言っていることを周りは受け留めなくなりますし、本人も嫌な思いをすることになります

そのような心理学の成果を学校現場の中に生かす時代になっています。従来、家庭で自然に取得してきた手続き的知識を、学校教育のカリキュラムの中に入れて、意識的にどの学年で何を教えるかということを、具体的に策定するのが現代教育の課題になってきました。そんな時代だということを認識していただければと思います

読んでいただき、ありがとうございました。

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