「失敗は成功のもと」という言葉があるが、それはあくまでもそこから教訓なり、貴重なデータが手に入れられた場合だけである。
何もそこから正しい教訓を導き出すことができなければ、その後何回でも同じような失敗を重ねるだけである。
何かを為(な)そうとする時、一番重要なのは目的である。
「共通テスト」にするということは、国家共通の目的・目標があるということであろう。
日本の国をあげて、こういう人材を緊急に養成する必要が出てきた、だから「共通テスト」ということであろう。
そうでなければ、個々の大学に入試問題を作成させれば良いと思うからである。
別に無理をして記述問題を全国共通で作る必要もない。
教育再生実行会議という政府組織が2013年に提言(第四次提言)を出している。
ここから「共通テスト」に向けて動き始めたので、この提言内容――「高等学校教育と大学教育との接続・大学入学者選抜の在り方について」(下線筆者、以下同)を検証する必要がある。
表題の「接続」という言葉を気にしながら「はじめに」の文面を読むと、「共通テスト」を導入した目的・意図がよく分かる。
少し長いが提言のその部分を紹介する。
「義務教育の基礎の上に、高等学校、大学の段階で伸ばしていくものですが、その間をつなぐ大学入学者選抜が、高等学校や大学の教育に大きな影響を与えています。すなわち、知識偏重の1点刻みの大学入試や、本来の趣旨と異なり事実上学力不問の選抜になっている一部の推薦・AO入試により、大学での学びに必要な教養や知識等が身に付いているかどうかを確認する機能が十分発揮されておらず、ⅰ)大学入試に合格することが目的化し、高等学校段階で本来養うべき多面的・総合的な力の育成が軽視されている、ⅱ)大学入学者選抜で実際に評価している能力と本来大学が測りたいと考えている能力との間にギャップが生じ、学生にとっても大学入学後の学びにつながっていない、などの課題が指摘されています。……」(第四次提言「はじめに」)
簡単に言えば、学力がない者が大量に大学に進学するので、現場は当惑している。
大学入学に必要な基礎的な学力というものがあるはずなので、それを国が率先して示すことにより、その基準を各大学に知らしめたい、といったところであろう。
この意見の大元は大学関係者からのものであろう。
これに、「グローバル化の急速な進展」(第四次提言)の中で「多様な人と協働する力を含めたコミュニケーション能力」(同上)の必要性が加わり、「聞く、話す、書く能力」といったことが記述式テストに収斂(しゅうれん)したというのが、およそのところであろう。
前者(「接続」)について検討するが、そもそも国が「接続」を考える必要があるのか、ということである。
高校は勉強をするところだが、大学は学問・研究をするところである。最近は、就職をするための踏み台的なところという捉え方をする生徒もいるので、そういう需要に応えたいのならば、そういったビジネス大学をつくれば良い。
それはともかく、高校まで学び、自分の興味・関心や将来の進路を睨んで大学進学を考え、それに向かって自分の実力を自己努力で伸ばせば良い。
「接続」は各受験生が考えることである。
許認可権を握る文科省が大学設置基準を緩めて、大学の乱立、そして質の低下を招いてしまった。
1960年代は大学進学率が10%台であるが、今や50%を超えてしまった。当然、学力の低い者も大学に入学してくるだろう。
(ガベージニュース)
であるならば、そこは大学の方で補習授業をしたりして、高校時代に獲得できなかった学力をリカバーしてあげれば良い。
そういう大学では厭だというならば、切磋琢磨して大学間競争に勝つよう努力すれば良い。ただ、それだけの話である。
今回の大騒動、まさに「大山鳴動して鼠一匹」ということであるが、
原因としては目標に値しないようなことを目標設定した上に、「現場を知らず、関心もない人たちの机上の空論で物事が決まった」(「大学共通テスト 土壇場の『待った』記者座談会」『日経』2019.12.23日付)
からである。
「教育行政のプロとしての矜持(きょうじ)を見せてほしかった」(同上)という声もあるが、期間については検討の余地がありつつも、教育行政官に現場での実践を義務づけたらいかがであろうか。
一番危惧するのは、勝手な子供・生徒像を頭の中に描いて教育論を語り、政策を立案することである。必ず狂うと思っている。
今回の事案で教訓にして欲しいことは、そういうことである。
今回も読んでいただきありがとうございました。