すいません、昨日のブログの中の話で気になっていることがあります
えっ、何ですか?
日本の神話は星に関する話は殆どないが、西洋の神話は星に関する神話が多い、と湯川博士がご著書に書いていることを紹介していましたよね。その答えを教えて欲しいのですが……
著書の中では、何となく匂わせているような書き方をされています。多分、それをすばり書いてしまうと、読んで考えようとした子供たちに良くないという気持ちがあったのかもしれません。あるいは、一神教、多神教の違いから来ているので、それを説明すると厄介という判断があったかもしれません
その辺りは、分からないと……。ただ、今の、一神教、多神教という言葉で私には分かりました。西洋の人は、夜空いっぱいの星空の下に神がいると考えたのですね
あと、もしかしたら暦の関係があったかもしれません
暦ですか?
西洋は星空の運行で月日の流れを知ったのですが、日本の場合は、四季もあり、それに合わせて植物や虫が周りに登場しますので、それで月日の流れが分かったと思います
日本にはそういった季節を表す言葉が多くありますからね
天気や植物にちなんだ味のある言葉も数多くあります。そのことから、周りの自然に多くの神を見て、その大元の神は太陽だと思ったのでしょうね
ウチの100歳まで生きた、田舎のひいおばあちゃんは生前よく太陽を拝んでいました。「なんで、太陽なんか拝んどるんか?」と聞くと、「あれはなあ、天照大神様じゃあ」と言ってましたからね
日本は太陽を国旗にしていますからね。ただ、世界の国旗を見ると、星を採用している国が圧倒的に多いのです
太陽を国旗に採用している国はないのですか
ありますよ。例えば、中央アジアのキルギス、カザフスタン、アルゼンチン、アフリカのニジュール、この位ですね。日本を入れて5か国です
思ったより、少ないですね
日本では天地の恵みは太陽からという捉え方ですが、大陸の人たちからすると、暑くてかなわん、勘弁しろよ、という捉え方だと思います。それが太陽の色に表れています
色ですか?
太陽を赤くデザインしている国は、実は日本だけなのです。ニジュールが橙色で後の国は黄色です。今度、洋画で太陽が描かれていたら、何色で塗っているか注意してみて下さい
自然条件の違いが、価値観の違いを生んだ
グローバル時代と言いますが、国境を越えて何でもかんでも交流していれば、それで何でも上手くいく訳ではありませんし、そのような時代は終焉を迎えつつあります。今回のコロナ禍で、時代は完全にポピュリズムの時代に向かい始めています。日本は、国内を固める時代に入りました。観光立国という、他律的なスローガンを国の中心政策にする時代ではなくなりました。
今までの2人の話で、大陸の人たちと日本人の自然に対する捉え方が違うのが分かったと思います。
それがどうしたのですか、という意見が返ってきそうですが、そこからすべてのことが派生して、価値観の違い、国家や社会のあり方とつくり方の違いに表れます。さらに、お互いのその違いが理解できないまま交流することによって、誤解や時には偏見が生じますし、実際にそうでした。
具体的な話に移ります。日本は温暖湿潤気候なので、作物の生育が良く、周りが海に囲まれているため、海産物も豊富に採れたと思います。片や、大陸は人間が生活するには厳しい自然環境だったのでしょう。その違いが、多神教と一神教に分かれた理由です。厳しい自然環境の中で食糧を確保するためには、移動する必要があります。移動が自由にできればできるほど、食料は確保する可能性は高まりますので、領地はあればあるほど良いという考えが生まれます。
日本の場合は海の幸、山の幸、川の幸があり、最低限の土地さえあれば食料は確保できます。余分な土地があっても、使い切れないし、労働が増えるだけです。そこで、余った土地は村の民が集まる空間として使う(入会地)ということを考え始めます。
狩猟民族と農耕民族は、土地に対する価値観が違います。この考え方の違いは、領土に対する考え方の違いに表れてきます。中国やロシアが一番分かりやすいと思いますが、あれほど広大な土地があるのにも関わらず、何故さらに領土を求めるのか。何故、小さな島にこだわるのか。勿論そこには戦略的なものもありますが、根底に流れているのは民族のDNAです。
考え方の違いは、国づくりの違いに表れます。大陸には多くの民族がしのぎを削るようにして生活しています。その中で狩猟民族は、食料を確保できるような領地を守ってくれる、強力な国家を求めるようになります。自分や一族のことを考えれば、生活が出来ることが第一なので、それを保障してくれるリーダーあるいは国を支持する、つまり契約という発想が出てきます。リーダーや国が弱くなった場合は、取り替えるという発想がでてきます。これが、革命です。
日本では、その場所が安定的に確保されれば、一族郎党それこそ未来永劫そこで生活できる訳ですから、いかに今の生活を安定的に保つかということを考え始めます。家族を一つの単位とし、それを守るための家制度を考えます。相続の仕方を考えます。国家はその家制度が大きくなったものと考え、同じ発想でいかにして安定的に保つかを考えることになります。家族の延長が国なので、日本では、民と国の首(おさ)は同じ方向を向いて共に国づくりをする仲間と考えるようになりました。西欧のように、権力者と民を対立関係で捉えなかったのです。
『日本書紀』に仁徳天皇の「民のかまど」の話が載っています。高台から見ていると、煙が余り上がっていないので、民が貧しい暮らしをしているのではないかと思った仁徳天皇は税金をしばらく免除したという話ですが、そこには仲間意識というものがあったと思います。
このような考えのもとで国づくりをしたので、契約とか革命とか、あるいは権利という概念が生まれる余地がなかったのです。それを日本が遅れた国だからと誤解したところから、今の憲法学会に「ボタンの掛け違い」が広がります。そして、誤った認識のもとに教科書が書かれているので、辻褄合わせのために嘘を書くことになったのです。
日本は何が何でも「和」の国
民族の成り立ちや特性について、他の国々と比較をしたりしてそれを踏まえて考えないと、読み間違いをします。「和」ということを例にとって説明したいと思います。
有子(ゆうし)曰く、礼の用は和を貴しとなす。先王の道も、これを美となす。小大これによれば、行われざるところあり。和を知りて和すれども、礼をもってこれを節せざれば、また行なわるべからず。
有子というのは人名ですが、訳としては
「礼は厳格なものだ。しかしそれを行うには和の心が根本になければならない。古代の聖王の道がすぐれているのも、この和の心あればこそだ。とはいえ、どんな場合でも和の心さえあれば十分だというのではない。いかにも和は大切だが、一方で礼による折り目がないと、せっかくの和もうまくゆかぬことがある」(一学而『論語』久米旺生訳/徳間書店.1973年)となります。
和は大事ですが、和を第一にすることはできない。礼、つまり規範が第一と言っています。この和をどう日本では考えたのかということですが、次の文章を見て下さい。
聖徳太子の憲法十七条の第一条です。
一に曰く、和を以て貴しと為し、忤(さから)ふこと無きを宗(むね)と為す。人皆党(たむら)有り、亦達(さと)れる者少し。是を以て或は君父に順(まつろ)はず、乍(たちま)ち隣里に違ふ。然(しか)れども上和(やわら)ぎ、下睦びて事を論(あげつら)ふに諧(かな)ひぬるときは、則ち事理自ら通ふ、何事か成らざらむ
インターネットで検索すると、最初の一行しか紹介していないサイトが多いのですが、彼が一番言いたかったことは後半にあります。最初の一文は有名なので省略します。「人皆」というところからのおよその意味は、「人は徒党を組みがちであるが、悟っている人は少ない。だから主人や父に従わないことにより、周りと争ったりすることになる。上に立つべき人も下の者も仲良く話し合いができるならば、殆どのことは上手くいくものだ」とあります。
『論語』(中国)が大陸の考え方です。日本では、とにかく「和」と言っています。下の者だけではなく、上の者にも「和」を求めています。これをしかも第一条に持ってきていますので、最重要の考えと太子は思っていたのです。
この考えが『古事記』に受け継がれていきます。天照大御神が天岩戸に閉じこもってしまい、この世界は闇の世界となります。有名な場面です。緊急事態となり、神々は集まって天の岩戸の前で話し合いをします。『古事記』は、つまり国家の緊急事態の時は、徹底的に話し合えと言っているのです。これが先人のメッセージなのです。
世界がコロナ禍の中、各国はそれぞれ対応をしています。大陸の国は強権的にロックダウンをして対応したりしている国が多く、日本のやり方は生ぬるいと言われたりします。私自身も「パチンコなんかやっている場合かよ、強権的にやった方が良いのでは…」と思うこともありますが、ただ、この生ぬるいやり方が、実は日本式なのです。問題なのは、現代の社会において尚も有効性を発揮するのかということです。見守りたいと思っています。
日本の統治の考え方を大陸の人間は理解できない
欧米諸国の植民地経営というのは、完全な収奪です。国を滅ぼし、資源を取りつくして、そこに住む民を奴隷とするか殺します。「イギリスは、1788年、オーストラリアを植民地にしました。アボリジニと呼ばれる先住民の土地は暴力的に奪われ、オーストラリア東南部の多くの言語集団は全滅します」(山本真島編『オセアニア史』)。そのようなことは、スペイン、ポルトガルも行ってきたので、トピックスではないのです。南米のインカ帝国はスペインの武力によって16世紀に滅亡しています。ハワイ王国もアメリカによって19世紀に滅亡しています。
そのような戦前の植民地経営は、国際的には合法活動です。よく植民地経営自体を問題にする人がいますが、現代の価値観で歴史的事象を判断するのは間違っています。
日本は欧米に遅ればせながら、朝鮮半島と台湾の植民地経営に乗り出します(正確には併合ですが、その違いについては、後日論じたいと思います。植民地とすれば争いがないので、そのように表記します)。ただ、日本のそれは、欧米のやり方とは全く違い現地の人たちの目線に立ったものでした。
ただ、同じことをしても、韓国と台湾では評価が180度違うのは、大陸の民族には所詮「和」の考え方が理解できないし、信じられないのだろうなというのが私の結論です。日本人でも理解できず、反日思想に凝り固まっている学者、文化人、マスコミ、教育関係者が、いまだにいる位ですから、ある意味仕方がないのかもしれません。
八田與一氏
実例を紹介します。台湾では、八田與一(はったよいち)という日本人の功績について現地の教科書で紹介されています。そのため、大変有名です。土木技師としてダムと数多くの給水路を作り、15万haの土地を農業地帯に変えた人として、烏山頭ダムの近くには八田氏の銅像と墓があり、5月8日の命日には毎年慰霊祭が行われています。
(八田與一氏)
野口遵氏
一方、朝鮮半島で現在の赴戦江(ふせんこう)や長津江(ちょうしんこう)にダムや水力発電所を建設したのが、野口遵(したがう)という事業家です。彼が建設した水豊ダムは出力70万キロワットで当時では東洋一のダムでした。1960年代までは、北朝鮮は韓国よりも進んだ工業国だったのですが、このダムが工業化のためにかなりの貢献をしたことは確かだと思います。また、肥料会社(朝鮮窒素肥料)を起業し、現地の農業の発展にも寄与しているはずですが、これらについて北朝鮮も韓国も無視しています。
同じようなことをしてもその扱いは天と地の違いです。台湾は島国なので、農耕民族のDNAを受け継いでいると思います。大陸や半島の狩猟民族は、有史以来、領土を巡って騙し騙され、相争ってきました。さらにそれにプラスして、半島の民族は中国の冊封体制の中で汲々として生きてきたところがあると思います。そういうものが民族のDNAの中に入っていて、それを乗り越えて真の友好に行きつくのは殆ど困難であり、無理なのではないかと最近は思うようになっています。
「隣人とは遠く付き合え」。先人の遺した至言だと思います。
読んで頂きありがとうございました