哲学者のフランシス・ベーコンは、人間は先入観に陥りやすい動物であることを見抜き、その先入観をイドラと名付け、さらにそれを4つに分類した。
(ベネッセコーポレーション)
そのうちの1つに劇場のイドラというのがある。
本当は真実ではないのだが、権威や権力によって真実でないものが、あたかも真実であるかのように思い込まされてしまうというケースである。一番分かりやすい例が、天動説であろう。
現在は地動説が科学的に正しいとされているが、コペルニクスが唱えた地動説を実証したガリレオ・ガリレイ(1564~1642)は宗教裁判にかけられている。
彼は異端として訴えられ、ローマ教皇庁による宗教裁判が1616年と36年の2度にわたって開かれ、彼の学説は異端であり、有罪となって終身禁固の刑を科された。
そういう事実を目前にした時、誰もが天動説を正しいと思うであろう。
確かに、太陽や月は地球を中心に回っているように見える。自分の感覚に対して、ローマカトリック教会がお墨付きを与えたものを、誰もが疑うことはしないだろう。
そして、当時の多くの民は思ったことだろう。「ガリレオは変人、地球は宇宙の中心である」と。
ちなみに、ガリレオの名誉回復がなされたのは、その約350年後の1983年、今からわずか36年前のことである。
前置きが少し長くなったが、今の日本の歴史教科書、公民関係の教科書にも同じことが起きているのではないかと思っている。
今回話題にする憲法制定については、東大憲法学、憲法学会の見解に基づいて教科書の記述がなされている。
そこに文科省検定という権威が付いて、誰も何も言えないという構造がつくりあげられ、戦後ある意味では一つの常識のように語り継がれてきたのではないだろうか。
抽象論はさておいて、具体的に指摘したいと思う――
「国会を開設する前に政府が行う必要がある最大の仕事は、憲法の制定でした。
伊藤博文は自らヨーロッパへ調査に行き、ドイツやオーストリアなどの各地で憲法について学びました。
帰国後は憲法制定の準備を進め、1885年に内閣制度ができると、伊藤は初代の内閣総理大臣に就任しました。
また、伊藤が中心になって憲法の草案を作成し、審議を進めました。」
「1889年2月11日、天皇が国民にあたえるという形で大日本帝国憲法が発布されました。
憲法では、天皇が国の元首として統治すると定められました。……」(下線筆者/中学『歴史』東京書籍、172ページ)
この教科書の記述を素直に読んだ中学生は、伊藤という人がヨーロッパで憲法について学び、それに基づいて大日本帝国憲法がつくられた。
それは国民に対して上から目線であたえられたようなもので、どうも今の憲法とは違う性格のものらしい、というような感想を抱くであろう。
もっとも、そこが狙い目だと思われる。
明治天皇は1852年に生まれており、大政奉還、明治維新の頃はまだ10代の青年である (ちなみに、明治憲法発布時は37歳)。
憲法制定に向けて中心的な役割を果たしたのが伊藤博文である。
1870(明治3)年にアメリカに行って大統領、国務長官と会っている。そこでアメリカの憲法制定についての集大成ともいうべき本『フェデラリスト』(Federalist)を贈与され、伊藤はそれを生涯座右に置いて繰り返し読んでいたとのことである。
その彼が起草委員会のメンバーとして選んだのが井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎である。
当時の関係者の伊藤博文の「帝国憲法義解」と金子堅太郎の「帝国憲法制定の精神」という論文が遺っているが(これらは呉PASS社から復刻選書として出版されている/2017年改訂版発行)、そういった一級の資料を一顧だにされることなく教科書は書かれてしまっている。
上記資料に書かれてあることなどに基づいて、いくつか指摘する。
①彼らの「悩み」は、日本が手本とするような国がなかったことである。
日本は古代から明治の時代まで大きな内乱もなく、1つの王朝のもと安定的な政治が行われていた。一方、ヨーロッパはと いうと、動乱と革命、戦争が繰り返し起こり、国も様々な国が勃興し、国境線もしばし変わるような有様であった。
統治者の中にはその権力を欲しいままに振るい、重税を課したり、民衆を弾圧したりという者もいた。
日本の天皇は権力者として振る舞ったことはないし、民衆に牙をむいたこともない。日本的な統治のシステムに基づいて、平和で素晴らしい国づくりがなされていた。
②それではなぜ、伊藤博文はヨーロッパに行って調査をしたのか。
「智識ヲ世界ニ求メ」(五箇条の御誓文)というのが明治天皇の問題意識であったこと。
ドイツは1870年にフランスに打ち勝った勢いでドイツ帝国を建設していた。
「君権の赫々(かくかく)たる国」(金子、前掲論文)なので、つまり皇帝ウィリアム1世を中心に今や光輝いているような国なので、その国の憲法を調べよという勅命がおりて派遣されることになったのである。
伊藤は1882年から1年半ドイツ、ベルリンに駐留するが、「自ら」と教科書にあるが、勝手に行った訳ではない。
③ドイツを拠点にしてのヨーロッパの調査をどのように総括しているか
帰国してから伊藤博文は憲法起草委員会を立ち上げている。
メンバーは伊藤の他に井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎である。
彼らが調べた国は、ドイツ、フランス、イギリス以外にベルギー、イタリア、ザクセン、プロイセンである。
実際に現地に行ったり、他国の憲法を調べたりしたが、「所詮我国には適用すべき筈のものではない」と結論付けている。
④本来、憲法というものは統治者が定めるもの
教科書には「あたえるという形」と、いやな表現を使っている。
実は教科書には、憲法発布の式典の写真を載せて、中学生の女の子と思われるイラストが描かれ、「壇の上に立っている人は、何をしているのかな」と揶揄するようなセリフを言わせている。
「日本が近代立憲国家としてスタートした瞬間です」とか、素直に書けないものなのかと思ってしまう。
それはさておいて、ヨーロッパの歴史には、暴君とそれに反発した民衆による革命がしばしば起こる。
二度と弾圧政治をさせないために、権力者との約束を交わす必要がある。
これがヨーロッパの人たちの憲法の捉え方である。
ただ、それは本来的な国のあり方からすると間違っている。
例えば、会社組織を考えて欲しいのだが、まともな会社ならば会社のトップが会社の方針や社訓を定め、それに基づいてガバナンスを行うであろう。
トップの能力が低い場合やパワハラなど問題行動がある場合は、仕方がないので社員が共同で会社の方針を決めるということが、もしかしたらあるかもしれない。
(転職サファリ)
日本が前者で、ヨーロッパが後者。後者の会社を手本にしたら、多分その会社はダメになると思われる。権利、主権、平等、自由、社会契約といった概念は、ダメ会社の従業員が社長が暴走しないようにするための言葉であり、苦労の末にあみ出されたものである。
本来、そういった言葉・概念を使わずに、ガバナンスがされている会社が理想であろう。
⑤古代より連綿と続いた日本的統治のあり方を踏まえて、明治憲法を解釈する必要がある
手本にするような国も憲法もない。
さらに1879(明治12)年に北米の大統領グラントが来日してその際、明治天皇に日本の憲法は日本の歴史や習慣を踏まえて起草した方が良いとのアドバイスをしている。
そのようなことを踏まえて、権威と権力を分離するという日本的統治を英米法の概念を使って(使わざるを得なかった)憲法に盛り込むことをした。
日本の歴史を紐解けば分かるが、権力者は貴族階級、武士階級と移り変わるが、実際の政治は彼らに任せて、そのバックを朝廷が支える形であった。
大政奉還は武士階級がその権力を朝廷に返したのだが、今度は朝廷に返された権力を各大臣に預けることを宣言したのが、明治憲法発布の意義である。
55条に「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」とある。これが法的根拠である。
教科書の記述を見ると、まるで天皇が権力者として政治に関わり始めたかのように思ってしまうが、そうではないのである。
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