「文科省の不正検定を正す会から『教科書抹殺』(藤岡信勝著)という本と一緒に自由社の『中学歴史教科書』が自宅に届きました。明治維新、明治憲法の制定、朝鮮併合など、争点となっているところなどを中心に、およそ目を通しましたが特に問題はないと思います」
「私は誰が執筆者かなって、最初に見ました。大学の先生、小学校から高校までの現場経験者、歴史の専門家、行政の経験者、憲政史家など多士済々でしたので、よく考えられていると思いました」
「教科書会社によっては、大学の教授をずらりと並べているところ、逆に中高の教員を中心に作成しているところがあります」
「同じような肩書の人を並べると、変に忖度が働いて、盲点が生まれると思っています
「なるほどね、いろいろな角度から見た方が良いですからね」
「ところで、この教科書を市販するんでしょうか?」
「ここに1800円という値段がついているので、売る考えじゃあないでしょうか。検定不合格は想定外だったので、ある程度の部数を印刷する準備をしていたのでしょうね」
「ただ、不合格になると市販されて出回るけれど、合格すると市販されないので、何が書かれているか分からないというのも変な話ですね」
「考えてみればそうだね。ただ、もう検定教科書の時代ではないと思います。アメリカを見習って、自由にさせれば良いと思います」
「あまり自由にすると、訳の分からない教科書が使われてしまわないかしら」
「検定の陰に隠れて、私に言わせれば凄まじい内容の教科書もあります。例えば、「学び舎」の教科書がそうですね。だから現場で使うものは書店でも販売して、一般の市民にも見てもらうようにする。そして、リコール制度を導入すれば良いと思います」
「親にも参加してもらって、不適切なものを教育現場から排除するシステムということですね」
「教科書調査官は現場を直接知らないし、ほぼ全員が教員免許を持っていないと思います。そのような彼らに多くの権限を与えて、教科書審査するということ自体、論理矛盾ですし、茶番です」
「検定自体がいらないということですね」
「変に検定制度があるので、近隣の国が文句をつけてくるのですよ。ウチは自由にやっていますからで終わりじゃあないですか」
「しかも時代はペーパーレスの時代ですからね」
韓国併合は日本防衛のため
歴史には、因果関係の流れがあります。それが分からないと、生徒は納得しません。日本の防衛のための併合と言葉で説明しても、彼らには分からないでしょう。中には、侵略するための口実だろう、と思う生徒がいるかもしれません。
しかし、18世紀後半のアジアの地図で、日本と朝鮮、タイ以外は西欧列強の植民地になってしまっている状況を知れば、「日本の防衛」を納得し、理解を示し始めると思います。
日清戦争も日露路戦争も、すべて日本の外で戦っています。生徒の感覚からすると、出かけて行って戦った、つまり侵略戦争というふうに捉えがちなのです。
「植民地競争の時代」であることを念頭に、地図をよく見て欲しいと思います。日本はまさに風前の灯です。朝鮮が西欧列強の手に落ちれば、日本は相当に危ういことが分かると思います。当時の為政者は、かなりあせったと思います。彼らが考えたのは、朝鮮が独力で欧米列強の侵略をはねのける力があるかどうかということです。それがあれば、別に半島経営に乗り出す必要はないからです。人員が必要ですし、お金もかかります。ところが、それは全く期待できない。
であれば、日本としての選択は、間接統治(植民地)か直接統治(併合)のどちらを選ぶかという問題になってくるのです。
植民地と併合の違い
教科書の多くは、植民地と併合を混ぜて使っていますが、厳密には違います。植民地という言葉は余り良くない響きをもっていますが、もともとはコロニア(農場、領地)というラテン語が語源です。当初は、母なるポリスから離れて住む場所、程度の意味でした。これが時代を経て18、19世紀になるとコロナイゼーション(植民地主義)となり、そこに侵略、掠奪という意味が付与されるようになります。
15世紀から17世紀の大航海時代において、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランスといった西欧の国々がアフリカ、アジア、南北アメリカに進出し、現地の資源を収奪しました。そんなことから、悪しき意味が加わったと思います。
ところで、韓国の場合は、2つの理由から植民地としては不適格だったのです。
1つは、そもそも収奪するものがなかったのです。「朝鮮半島は帝国時代の植民地としてまったく魅力がなかった」、「当時の日本にとって朝鮮は、大陸に進出する橋頭保(きょうとうほ)であることの他には特別な利点のある土地ではなかった」(金完燮/キムワンソフ『親日派のための弁明』草思社.2002年/100ページ)のです。土地は痩せて、山ははげ山、資源もない。何を収奪するのか、ということです。1910年の韓国併合直後に総督府が印刷した朝鮮半島の地図が残っていますが、植林ということをしていないため、森林は北朝鮮の山あいに残っているだけです。
併合が行われて日本が最初に行ったのは、土地調査事業です。それぞれの土地の所有者を確定する作業をするのに、1910年から1918年まで、多くの費用をかけて行っています。ということは、それまでの政権はそういったことを何もしていなかったということです。土地の区画を定めるためにくい打ちをしたところ、農民の中にはその意味が全く分からず、自分の土地が取られてしまうと思い込み、暴動が起きたという記録があります。測量とか、区画整理、土地整理事業、所有権という概念自体がなかったと思います。すべてアバウトで行っていたのでしょう。そのため、広大な所有者不明の土地が出てきたのです。当時の日本人は、あきれたと思います。
ちなみに日本では、古代の律令制の時代にすでに行っていたことです。土地の所有者が分からなければ、税金を課すことができませんので、国家財政は当然不安定でしょう。正確な土地データがなければ、銀行は土地を担保に企業に資金を貸し出すことができません。すると、工場を建てて、資本主義的な大規模生産は恐らくできないでしょう。だから、その時点では、朝鮮の土地は「経済的」に全く価値のないものだったと思います。
所有者不明の土地が7万haあったとのこと。国有地扱いにするしかないので総督府管理としたのでしょうが、日本が収奪したと今でも言っています。現在は価値があるかもしれませんが、当時は全くといって良いほど価値がなかったものです。使いようがない原野のような土地を、ただ単に管理していただけだったと思います。
2番目の理由については、言う必要もないくらい分かると思いますが、近代国家経営という感覚がない国が、欧米列強の力をはねのけることはできないという判断です。清が欧米列強の草刈り場になっていたのです。いわんや、ということです。
「共に歩まん」という決意だったのが日本
日本に残された道は、併合によって一つの国となり、共に激動の時代を歩む、それしか生き残る道はないという悲壮感あふれた考えだったのです。「侵略」というレッテルを貼ることがありますが、少なくともこの当時は防衛という意識だったと思います。
併合について、初代の朝鮮総統の伊藤博文は最後まで反対だったそうです。ところが、ハルビン駅で安重根に暗殺されてしまいます。皮肉にも、併合の方に傾くことになります。有力な反対者が暗殺されていなくなったからです。このことに対して、当然朝鮮の国内においては賛成と反対があります。当たり前だと思います。
問題なのは、日本の教科書にとりわけ反対意見だけを載せていることです。止めて欲しいと思います。素直な子供たちは、教科書に対して一定の信頼をもっていますので、そのまま信じてしまいます。教科書の書き方によって、却って日韓関係を悪く、そして子々孫々の代までに長引かせることになります。感情的な反発ではなく、データに基づいて教えるようにして欲しいと思います。
「1905年以降、日本にとっての朝鮮は植民地というより拡張された日本の領土という意味合いがより大きかったと思われる。当時、日本人は朝鮮と台湾を統治するにあたって、おおむね本土の人間と同じ待遇を与えた。とくに朝鮮に対しては、大陸の入口という地政学上の重要性のために、むしろ本土以上の投資をおこない、産業施設を誘致するなど破格の扱いをした」(金完燮/キムワンソフ『親日派のための弁明』草思社.2002年/14ページ)のです。
「内地、外地」という言葉が遺っていますので、当時の日本人は多分、海を隔ててそこにもう一つの「日本」があるという感覚だったと思います。併合をしたからといって、民族の壁を乗り越えて急に仲良くなる訳ではありません。差別感情は双方当然あるでしょう。当たり前です。そんなことを問題にするべきではありません。
スコットランドは、1707年にイングランドに併合されています。およそ300年経っていますが、それでも一つにまとまっている訳ではありません。EU脱退を巡っての国民投票では、意見が完全に2つに分かれました。そういうものだと思います。
話を戻します。ところで、時間の経過とともに、お互いの往来も盛んになります。1940(昭和15)年の時点で、朝鮮に住む日本人が約80万人、日本に住む朝鮮人が約230万人だったのです。慰安婦や徴用工の問題は、そういった交流の中で起きた問題です。つまり、すべて日本国内で起きた問題です。
その後敗戦となり、韓国が建国されたのです。慰安婦や徴用工の問題は、韓国の建国以前の問題なので、韓国政府が法的に関わることはできません。ましてや、1965年に日韓基本条約が締結されていますので、2重3重におかしなことが起きています。「無理が通れば道理が引っ込む」という諺の通りのことが起きています。つまり、その辺りの経緯についてよく分かっていない人達が近年になって騒ぎ始め、そこに反日のマスコミと政治家が乗っかかっているだけなのです。
敗戦後、国内の朝鮮人に対して、どこで居住するかを自由意志に任せました。約60万人の方が日本に残る道を選択しました。それが多いか少ないかを判断することはできません。ただ、これだけの数の人が国内に留まった意味を、深く考える必要があると思います。
日本の先人たちが台湾、そして朝鮮に対して行ったことで、自己卑下することは何もありません。「日本が経済だけでなく政治、文化、軍事において、堂々たる自主独立国家となるためには、なによりも歴史にたいする自負心を回復することが早急な課題である」(金完燮 前掲書.22ページ)と、海の向こうから心配している人もいるのです。
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