(毎日新聞)
共通テストに記述式問題が導入されないことに対して、各新聞社がほぼ一斉に12月18日付の朝夕刊、社説などで手厳しい批判の文章を載せた。
それはそれで良しとして、その文章がどういう意図で書かれたのか、教育や入試に対して各新聞社がどういう問題意識をもっているかは、その後の2、3日の紙面のつくり方を見れば、ほぼ分かる。
12月18日のブログで「一番説得性のある文章を載せたのが『日経』だと思っている」ということを書いたが、『日経』はその後19日から21日まで「漂流 大学入試改革」として3回にわたって文章を載せている。
教育関係の記事は、現場に近いところから適切な意見をいかに多く取材できるかが説得性をもつ鍵となる。
「漂流 大学入試改革」の記事を見ると、母子家庭の都立高校2年生の女子生徒、NPO法人「八王子つばめ塾」という無料塾の理事長、大学で入試実務を経験した方ということで大学の名誉教授、私立渋谷教育学園の副校長、駿台教育研究所の進学事業部長に取材、コメントをもらっている。
これだけ多くの関係者にあたっているということは、記述式問題の導入中止が決まってから取材に入ったのではなく、新聞社として、あらかじめ大学入試について問題意識をもって動いていたことがよく分かる。
経済新聞社と教育は一見結びつかなそうだが、経済発展をするためには、よき人材育成、つまり教育の重要性を感じていたのではないかと推測している。
『毎日』は国語の記述式がなくなったということで、それに絡めてPISAの読解力の低下の問題、2022年度から新しい科目となる「論理国語」について論説委員の濱田氏が文章を寄せている(2/19日付)。
『産経』は社会部編集委員の川瀬氏が「AI社会、生き抜く入試改革を」ということで文章を寄せている(2/21日付)。
「50万人が一斉に受験するテストで記述式問題などを導入するのは不可能だろう」「2本柱を失った共通テストは、センター試験と実質的にかわらない。ならば廃止を視野に、個別選抜改革に力を……」と言う。
ただ、彼が取材したのは文科省の関係者だけである。
そうすると、どうしても文科省への忖度が働く文章となってしまう。
(wikipedia)
ただ、本来は文科省が中止を言う前に、各新聞社が自分たちのもっている教育観にもとづいて意見を表明すべきである。
文科省が中止を決め、文科大臣が頭を下げた途端に集中砲火を浴びせるのは、いかがなものか。
もちろん、責任は責任として追及するのは構わないが、その後のフォローとして対案を出す、あるいは中止に至った背景や影響なりを現場に入って丁寧に取材する、といった姿勢が欲しい。
その後において、大学入試に関する記事なり提言をまだ載せていない新聞社もある。
文科省の責任を問うならば、新聞社としてそれについての意見と対案なりを世間に向けて発進する責任があると思う。
そうでなければ、単なるアジテーターになるだけである。真面目で建設的な紙面づくりをして欲しいと願うばかりである。
ところで、何故このような失態を文科省は演じてしまったのか。その理由について論じているものに今のところお目に掛かっていないが、昨日のブログで話題にした言葉で言えば、演繹的思考だからである。
2020年の大学入試は「読み、書き、話す」の新方式を特徴とした共通テストによって行うという結論があらかじめ設定されてしまった。
本来は現場から様々な声なり要望を吸い上げ、社会の動向を睨みながら帰納法的に考えなければいけなかったのに、真逆の対応をしたということである。
何の根拠もなくゴール設定をする場合は、人は頭の中で勝手なサクセスストーリーを描きがちである。
そこに登場する受験生は、すべて出題された問題に真剣に取り組み、こちらが予想したような答えを一生懸命書いてくれると思い込んでしまうのである。
そして、マミコミはもちろん国民は、この入試改革は素晴らしいと褒めたたえてくれる、と勝手にシナリオを思い描いてしまうのである。
まさに「裸の王様」である。子供から「王様は裸だ」と言われて、周りもやはりそうかと気付く話である。子供は目が曇っていないので、裸だと気付いたのである。
(イラストの里)
今回の事案もそうであった。
文科省前で理路整然と制度の欠陥を指摘したのは、少し大きな子供、受験生であった。
今日も読んで頂きありがとうございました。