小学校では平成30年度から,中学校では平成31年度から道徳の教科化が始まっている。
従来も「道徳」は週1時間あったが、他の授業に振替えられたり、ホ-ムルームになったりということで、それを防ぐために評価もつけることとし、正規の教科として成立させたのである。
いじめ、からかい、暴力行為などが増加の一途である。授業崩壊、学級崩壊もそれに比例して起きている。
それを少しでも無くそうという意図もあると思うが、効果はないと思っている。
その理由を簡単に言えば、人間は機械ではないからだ。
機械であれば、「道徳」というプログラミングをすれば、そのように動くであろうが、人間はそんな単純な生き物ではない。
このことを含めて、この間の教育政策がすべて「対症療法」的である。
詰め込み教育批判が出てくれば「ゆとり教育」を打ち出し、グローバルと言われれば小学校への英語の導入、AIの時代と言われれば、プログラミング教育と言い出す。使える英語を、と言われれば民間試験の導入を考えるという感じで方針が出てくる。
その度に現場が振り回されて、仕事ばかりが増えて職場がブラック化しているのが実状である。
「対症療法」が有効な場合は、緊急性があり、なおかつ、そこに問題場面の原因と結果が凝縮されている場合だけである。
分かりにくいので、転んでケガをした場合に例えてみる。今、傷口から血が出ているので、止血と消毒をして、包帯を巻いた。
軽いケガであればこれで完了である。骨が折れているような場合では、この治療は有効ではない。
前者が「対症療法」である。
ケガの程度によって、その治療のやり方は当然変わる。社会や教育の問題も考え方は同じである。
やや大げさに言えば、その人の生き方に関わったり、生き方を変えようとしたりという働きかけをするのが道徳の本来のあり様(よう)である。
その子の問題行動が、それまでの生育環境から出ている場合は、「対症療法」的な発想では上手くいかない。
クラス全体を変えたい、良くしたいという場合も、そこに担任との間も含め、様々な人間関係が絡み合っている場合も「対症療法」では上手くいかない。
だから、単純に道徳の授業を行えば、道徳力が身に着くと思うのは、よほどお目出度い方である。
繰り返すようだが、人間は機械ではないからだ。
それではどうすれば良いのか。
温故知新という言葉かある。昔よき時代の考え方や手法を調べてみることにした。
そこには、現在の家庭教育にも取り入れて欲しい考え方が含まれているので、そういう問題意識で読んで欲しいと思う。
道徳という言葉自体は歴史のある言葉だということが分かった。
1891(明治24)年の「小学校教則大綱」(文部省令)において、小学校の道徳教育として教育勅語を使用する旨の方針が定められ、「小学校令施行規則」に具体的に「修身ハ教育ニ関スル勅語ノ旨趣ニ基キテ児童ノ徳性ヲ涵養シ道徳ノ実践ヲ指導スルヲ以テ要旨トス」と定められた。
法令で定められたので、各学校では教育勅語を中心に道徳の実践による修身の指導を考えなければいけなくなった。
単純に道徳ではなく、「道徳ノ実践」と書かれていることに注目して欲しい。
道徳心は人間を動かすことによって醸成することができる、というのが日本の古来よりの考え方である。
禅宗、特に曹洞宗の影響もあると思う。こういう考え方をするのは、東南アジアの仏教国と日本くらいのもので、西洋ではそのようには考えない。
だから、社会に出て一生懸命働くこと自体が人間を磨き、ひいては道徳心を高めると考えていた。
勤労という言葉が残っているので、それが分かる。
封建の時代は奉公によって道徳心を育てようとしたが、近代になってそれができなくなった。
その代わりに、教室や廊下、便所などを掃除させたり、いろいろな仕事を日直や当番制にしたりしてクラスの仕事に全員が関わるように分担した。
そしてそれが道徳実践なので、教員が掃除のやり方や要領を指導し、上手くできれば褒めたり励ましたりしてコミュニケーションを交わした。
今も子供に掃除をさせるが、その意味を教員が理解していないと、単なる仕事で終わってしまうし、保護者から「どうしてウチの子に掃除なんかさせるんですか? 学校は勉強する所なんでしょ」と言われて、何も言えなくなってしまう。
修身の教科書があったので、担任による授業もあった。その際も聴く姿勢、聞き方を重要視した。特に低学年ほど、時間をかけて丁寧に繰り返し教えた。
ただ、教育効果の面から一番重要なことは、学校と教師を権威付けることである。
人間という生き物は、同じことを言われても、自分と同格ないしは格下と思っている者からの言葉を重く受け止めようとはしないものである。
子どもも同じである。重く受け止めさせるには、舞台設定という演出が必要である。
そのために考え出されたのが、教育勅語奉読式である。神棚を用意して、普段はそこに教育勅語の巻紙を置く。
その式の時にそれを校長が恭(うやうや)しく読み上げる。
その瞬間に、子供たちの頭の中で、天皇と学校、校長、教師が1本の線でつながることになる。
そうなると、その後の教師の道徳指導が子供たちの中に溶け込むように入っていくことになる。
教育勅語には、日本の歴史が書かれてあり、その日本のためにどう生きて欲しいかという天皇からのメッセージが書かれてある。
自分の人生の目標を高く定めれば、いじめなどをしている暇はない。
そして、友と手を携えて「身を立て名を挙げ……」と唄って卒業していったのである。
これらの演出を支えた教師は、師範学校で特別に養成された。当時は、一般の大学では教員免許を取ることができなかったので、今の教員免許とは「重さ」が違っていた。
現在は期限付きの軽い免許である。これでは、ハレンチ教員は出ても、迫力は出ない。
この位の舞台設定を用意しないと、人間の心を動かすことはできない。
同じ音楽を聴いても路上ライブではよく聴かないとその良さが分からないが、武道館で聴けばふつうに聴いただけで感動するというのは舞台設定の問題と周りの人たちとの共鳴があるからである。
形だけ道徳の授業を行っても、全部聞き流され、全く効果は出ないだろうという意味をご理解いただけたのではないかと思う。
ご家庭でも人間を動かす構造を考えて、子供にあたって欲しい。
子供を厳しく叱らなければいけない場合は、その場面設定を考えることである。
私に対して親が使った方法は、亡くなった「おばあちゃんの写真」の威厳を借りることだった。
「自分が悪いと思ったことを正直におばあちゃんに言ってごらん」。悪ガキだった私は、何回その前で泣いて反省したことか。
上手いことを考えたものだと、今になって感心している。
最後に念のために付け加えるが、道徳の教科化に反対している訳ではない。道徳の授業は必要だと思う。ただ、今の考え方や方法論では、上手くいかないだろうということを言いたいのである。くれぐれも誤解なきようにお願いしたい。
読んでいただき、ありがとうございました