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『ケーキの切れない非行少年たち』を読む / 一人ひとりを大切にした教育態勢の構築こそが求められている

「『ケーキの切れない非行少年たち』(新潮新書.2019)という本を知っていますか?」

女性

「その本の広告が出た時を知っていますが、表題の意味が分かりませんでした。ナイフの使い方が分からないという意味ですか?」

「いえ、等分という概念が分からない、ということを言っているのです」

女性

「そういう概念が分からない人たちが、非行に走るということですか?」

「というか、非行に走った少年たちを追跡調査したところ、空間の認知機能が足りない少年が殆どだったということでしょう」

女性

「この本の中に(34ページ)、実際に少年たちがケーキを等分にした図が描かれていますが、確かに凄い切り方だなと思います」

「ただ、そのようなことは、ある意味訓練の部分があります。だから、そういったことについて、何も教えてもらうような場がなかったということです」

女性

「確かに、例えば、誕生会でケーキを切りますよね。そういう場面に立ち会っていないということなのでしょうか」

「著者は、生活経験の足りなさ、家庭や学校現場でのフォローのなさ、そして本人の能力の問題、そういったものがケーキの切り方に総合的に象徴されている、ということを言っているのです」

女性

「そういったことは、かつては遊びの中で覚えていったと思います。近所の子供集団の中に入って遊びを通して自然に学びました。砂でケーキを作って、ケーキ屋さんゴッコをしましたけどね」

「今は、外遊びをしませんし、子供集団自体がなくなりましたよね」

女性

「それに代わる機関ということで、保育園、幼稚園、小学校、学童に期待が寄せられるのだと思います」

「所詮は、大人が作った人為的な組織ですよね」

女性

「子どもだけの集団と比較して、どうなんですか?大人が絡んだ方が安心という見方もありますが」

「今思い出すと、仲間内で喧嘩になることもあったのですが、その時が一番学んだと思っています。人間関係の修復の仕方を」

女性

「貴重な経験をされたんですね ここからが本論です ↓」




 「非行は突然降ってきません」(宮口幸浩)


作者は突然の非行はないと言います。必ず、前段階があって、そこで手当てされないと徐々に崩れ、非行に繋がっていくという考えです。だから、その途中において家庭あるいは学校で必ずSOSを発しているはずなので、できれば受け止めて欲しいというのが、著者の願いです

心根の悪い少年が非行や犯罪に走るというのが、もしかしたら一般的な見方なのかもしれませんが、実際には「普通」の少年が、家庭や学校において、きちんとした対応がなされていなかったため、非行に走ってしまったというのが著者の考えです。だから、「子どもが少年院に行くということはある意味、『教育の敗北』でもあるのです」(宮口幸浩『ケーキの切れない少年たち』新潮新書、2019年/27ページ)と言われます。

 学校で一番大切なことが教えられていない


現在の学校教育は国語や算数といった教科教育が主ですが、私的には社会性こそが教育の最終目標の一つではないかと思っています」(宮口幸浩 前掲書、157ページ)。宮口教授は、子供に対する教育活動を、学習面、身体面(運動面)、社会面(対人関係など)の3つに分けた上で、今の学校は学習面にばかり目が行ってしまっていると指摘します。

その点について、教育基本法は「教育は人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」(第一条)としています。ちなみに、現在の教育基本法は2006年に改正されたものですが、この目的については、1947年に制定された旧教育基本法を受けついでいます

教育基本法の立場は、人格を育むために、それぞれバランスよく教えなければいけないという考えなので、教科教育だけをしていれば良いという考えをもっていません。ただ、現場ではどうしても教科をいかに教えるかが先行して、人間教育が二の次になるきらいはあると思います。

どうして、そうなったのかということですが、中学、高校は教科担当制で教科によって担当者が変わります。体育は体育の教員に任せ、人間教育についてはクラス担任に任せるみたいな雰囲気がつくられてしまったのではないかと思います。

ただ、本来は学校という組織は、校長、教頭といった管理職の指揮のもと、教員集団が心を一つにして児童・生徒と向き合い、そこに保護者や地域住民が協力をしていくという有機的な組織であるべきだと思います。そうなれば、生徒は様々な場面で、人間的な成長を図れるようになるだろうし、そういった学校にする必要があるのです。だから、教員は教科の勉強を教えるのは当たり前のことで、気になる生徒がいれば積極的に関わることが求められるのです。

学習は教科の授業、身体面は体育、社会面は道徳や総合あるいは部活動というように形式的に考えるのではなく、すべての教員が生徒に接する時に、教育理念と信念をもちつつ、人間同士の交流を目指すべきなのです。ところが、教員養成の問題、家庭の学校に対する見方の変化、地域や学校全体の教育力の低下などが絡み合って、それが子供たちの教育にマイナスに作用していると思います。

 一人ひとりの才能を引き出す教育態勢をいかに構築するか

文明が発達すればするほど、社会も複雑化するので、それに対応する人材を育成しなければいけません。当然教育にコストをかけなければいけないのですが、日本の政府はそういう認識には至っていませんし、与野党ともに問題意識が低いです公的教育費のGDPに占める割合は、先進国の中で最低レベルです。今、ようやく文科省が少人数教育に向けて動き始めようとしたところですが、早速財務省から待ったがかかって、ここで止まっています。

よい選手を育てようとするならば、優秀な監督、コーチ陣を組織する必要があります。日本の教育は、そこから立て直す必要があるのです

宮口教授は「犯罪者を納税者に」しよう、そうすれば経済的にプラスであると言います。現在、刑務所にいる受刑者を1人養うのに、食費や人件費などで年間約300万円かかるそうです。だから、一人の人間をまっとうな道に導くと、それだけで400万円の経済効果になると言うのです。

ただ、中には思わぬ才能、能力をもっている者がいるかもしれません。今や時代は工業社会ではなく、知的財産を価値に変えて、羽ばたくことが出来る時代です。「鬼滅の刃」の興行収入は50億と言われていますが、それを経済的に見れば、才能が生み出した知的商品です。スポーツの分野で才能を発揮する人が、中にはいるかもしれません。才能が埋もれてしまい、出会いが悪ければ少年院ということもあるでしょう。

一人ひとりの人間には無限の可能性が秘めています。それをいかに引き出すか、そういった態勢を国としてどうやって創るのか、そういったことがこれからの教育行政に求められていると思います

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