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日本の学校教育で足りない視点 ―― 志教育 (吉田松陰) / 日本の伝統的な教育の考え方は「薫陶」という言葉に込められている

  • 2021年11月5日
  • 2021年11月5日
  • 教育論
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「今日もまた『致知』ネタでいきましょうか」

女性

「同じ本を連続で取り上げることはなかったと思いますが、何かあったのですか?」

「昨日のブログは純粋な教育ネタだったのですが、意外に評判が良かったので、続きということで書きたいと思います。本当は、どちらかというとジャンルをはっきり分けずに複合的に書くのが良いと思っているのですけどね……」

女性

「その辺りのことについて、お考えを言ってみて下さい」

「政治、経済、教育というように学問分野は分かれていますが、実際の社会はそれが複合的に表れることが多いのです。そのため1つの事象を見た時に、多面的に考える必要があると思っているのです」

女性

「具体的な事例を何か一つ挙げて説明してもらえませんか」

「例えば、労働生産性を高めるためにはどうするのかという命題を立てるとします。労働生産性は経済用語ですが、これは、政治、経済、教育の全ての問題が包摂されています」

女性

「例えば、教育分野においては何を考えれば良いですか?」

「人間に教育を施して付加価値をどのくらい付けるか、それが労働生産性を高めることにつながります。そうすると、学校教育のどの段階の教育を重視するのか、あるいは大学入試なのか大学教育、はたまた大学院のあり方、さらには教員養成なのかという問題が出てきます」

女性

「敢えて絞ることは出来ますか?」

「今までそういう視点、つまり人材(人財)育成という視点で教育を捉えてこなかったので、絞るどころか、すべて抜け落ちているというのが私の評価です」

女性

「そこには、様々な原因があると思いますが、経済は経済、教育は教育ということで来てしまったということですね」

「もちろん、専門は専門として大事です。ただ、文系関係は理系と違って、余り専門を細かくしてしまうと、肝心なことが見えなくなってしまいます。特に、時代が進めば進むほど、総合的な視点は大事になります。ただ、理系関係は逆だと思っています。専門が細分化していくだろうと思っていますし、そうでないと時代の流れに対応できないと考えています」

女性

「ここからが本論です ↓」

 「十年樹木、百年樹人(じゅじん)」

『致知』(2021、12月号)の巻頭言をアサヒビール社友の福地茂雄氏が書いていますが、「十年樹木、百年樹人(じゅじん)」という中国の故事を紹介しています。意味は、樹木を育てるのに十年かかり、人を育てるのには百年かかるという意味です。

どうしてそんなに時間がかかるのか、と言えば、人間には多くの可能性があるということと、そのために生まれ落ちた時にゴール地点が見えないからです。木というのは、木として成長して上手くいけば大樹となりますが、それがゴールなので、そこで終わりです。

多くの可能性があるということは、多くの選択肢があるということですが、それは有難い反面、多くの迷いが出ます。しかも人は家族という単位の中で生活をしていますので、その迷いは家族を巻き込むことが多くなります。家庭不和のもとになることがあります。人間だけに与えられた喜びなのに、それが原因で悲劇が起きることもあります。そういう時間を乗り越えて、途中は周りのサポートがどうしても必要ですが、最後は自分で開花に向けて行動します。3つのステップを踏みますので、どうしても長い時間がかかってしまうのです。

大事なのは、子供たちが自立できるようなサポート体制を構築することです。不登校や自殺をする生徒が年々増えています。虐待も増えています。人生の入り口で止まってしまっている人が増えています。そこで止まると、自暴自棄になり自殺に走ったり、先日あったように他人に危害を加えるような犯行に走ったりします。子供たちに寄り添うかたちで早急に態勢を作る必要があるのです。

(「致知出版社」)

 日本の伝統的な教育の考え方は、「薫陶」という言葉に込められている

英語では教育を意味する言葉が、全部で3つあります。エデュケーション(education)が一番よく知られていますが、upbringing  とnurtureも教育です。それぞれニュアンスの違いがあります。educationその子の特性を引き出すという意味合いが強くupbringing  はしつけの意味が強いです。nurtureは一般的に育てるというニュアンスなので、対象は子供に限らず、例えば見込みのある青年を作家として育てるとか、一般的に感情を育むという時に使われます。

学校教育に関係する言葉は、educationとupbringingですが、両者ともに他律的な要素が強い言葉です。何も知らない子供たちに大人が様々なことを教えて、能力を伸ばして、社会の一員として活躍できるように引き上げてあげるというニュアンスが強いです。

日本の伝統的な考え方は、自分を教育する最良の教師は自分であるという自律的なものです。もちろん、実際には親を始めとする多くの大人たちのサポートを否定する訳ではありません。しかし、彼らはあくまでもサポートに過ぎない、自分を主導するのはあくまでも自分という考え方が強いのです。

一度しかない人生なので、無駄な時間を過ごす訳にはいきません。そのため一番大事なことは志を立てることと説きます。自分の人生の目標を早いうちに決めてしまうのです。志さえ立てることが出来れば、自ずと人格も備わってくる、周りもそれをサポートするように動いてくれるようになると考えます。

薫陶という言葉があります。今では、余り使われなくなってしまっていますが、この言葉は日本において教育がどのように考えられていたか分かる言葉です。薫陶の意味は、「人格や品格のある人物から影響を受け、人格が磨きあげられること。感化されること」(「実用日本語表現辞典」)ですが、薫陶を受ける、薫陶を仰ぐというように使います。

陶器を作る工程は、土練りから本焼きまで実に様々な工程を辿ります。それを人生に見立てているのですが、そのような人格者と雖も、その人の人生の中に立ち入ることはできない、あくまでもほのかな薫りを添えることしか出来ないという意味合いが含まれているのです。

(「CAREER PICKS」)

 吉田松陰の志教育

志教育という視点が日本の学校教育では失われています。そのため、点数が目的化したりブランド志向になったりします。

志教育とくれば、吉田松陰です。10坪足らずの小さな教場から、明治維新期に活躍した人材を大量に生み出しました。吉田松陰の国に対する熱情と薫陶が塾生の魂に火を点けたのでしょう。若くしてこの世を去りましたが、彼の言葉をいくつか紹介します。

「志を立てざるべからず」(打消しの助動詞「ざり」の連体形+「べからず」。2重否定で意味を強めています)

「道の精なると精ならざると、業の成ると成らざるとは、志の立つと立たざるとに在るのみ。故に士たる者は其の志を立てざるべからず」(人としての生き方が正しくすぐれているかそうでないか、また、仕事や勉強などがうまくいかないかは、心に目指すところがきちんと定まっているかいないか、つまり志があるか否かによる)『吉田松陰一日一語』(致知出版社、2006年/16ページ)

「能はざるに非ざるなり」(できないのではない、やらないだけである) (同上、21ページ)

「有志の士は観るところあれば則ち必ず感ずる所あり」(志を持っている人間は、何かを目にしたら、必ず心中に感じるものがある) (同上、20ページ)

志と目標は違います。目標はあくまでも自分の特性や嗜好だけを考えて立てるものです。特性や嗜好は変化することもありますので、目標が変わることもあります。そのため、長期目標、短期目標という言い方をします。

志は自分自身を深く見つめた上で、人生の中でやり遂げたいと考えたものです。そして、それが公益・国益に合致している必要があります。それを立てることを松陰は説いたのです。そのような立志の人たちが集まった国家であれば、いかなる危機も乗り越えられると考えたのです。そして、そのような人材を養成することを国に求めたのです――「人材を聚(あつ)めて国勢を振ふは今日の要務たり」(才能のある人々を集めて、国家の勢いを盛んにすることは、今日の重要な務めである) (同上、28ページ)

彼の珠玉の言葉は、現在の日本においても必要とされていると思います


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