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森林大国・日本の盲点 (その3)  ―― 里山再生の思想と現実 / 「共生」を問い直す森林論を宮脇氏から学ぶ

「自然との共生を真剣に考える時代だと思います」

女性

「この間の話し合いで、クマの出没は自然からの警告かもしれないと思うようになりました」

「三内丸山の縄文人たちが1,500年もの長い期間あの地で自分たちの生活を維持できたのは、自然と向き合うことができたからです」

女性

「よく考えると、凄いことですよね」

「自然は再生する力を持っています。その再生力を常に考えて生活をしていたのだと思います」

女性

「自然の再生スピードを超えない暮らしを心掛けるということですね」

「ただ、文明というのは、自然を凌駕しがちです。そうならないように、山全体を信仰の対象にしたりして、自然を守ってきたと思います」

女性

「先人たちの知恵がそこにあるということですね」

「自然を自分たちの都合で利用してもよいという発想は、西洋的です」

女性

「ということは、明治維新以降に移入した発想なんですね」

「そうですね。自然や人を政権の都合で利用するという考えが、この日本に定着するようになります」

女性

「ここからが本論です ↓表紙は「院庄林業株式会社」提供です」

 森を主体とする思想――宮脇昭が示した共生の原理

半世紀以上にわたり「命が息づく森づくり」の研究と、その傍ら植樹活動をされていた植物生態学者の宮脇昭氏が逝去され5年になろうとしています。彼が79歳の時に『致知』という雑誌の対談で「森を蘇らせよ、人間も生きる」と語っていたのですが、すでにその時点で国内外1500カ所、本数にして3000万本の植樹をなさっていました。研究と実践を頑迷に追究された方だと思っています。

しかし現在、彼のように研究・実践をされている方は確実に減少していると思われます。森を単なる資源ではなく、一つの生態系として捉え、真の共生を目指す政策を日本の国として行って欲しいと思っています。日本人の中に、森と共生を図った縄文人のDNAが流れていると思いますが、国が森林に向き合う政策をしなければ、その流れも途切れてしまうからです。

宮脇氏は一貫して「植物本位」の立場をとっていました。動物も人間も緑の植物の「寄生虫」にすぎないと考えていたのです。ともすると、人間中心主義的な発想に陥りがちですが、この地球の主は緑と酸素を生み出す植物であり森林だと考えていました。確かに、この地球上に最初に現れた生命は植物でした。その後、動物が出現して最後に人間が登場しています。新参者の人間は、植物に対して敬意を払うべきであり、その植生維持のために力を発揮しなければいけないということなのです。

従って植林活動は見た目には環境保護のための活動ですが、私たちの命も含めて、生命基盤の再構築に他なりません重要なことは、「この地に生まれ育っている人の命と心と遺伝子を守ること」と宮脇氏は言います。植樹をする場合でも、その地に合った木を植えなければいけないのです。それが土地本来の防災・環境保全林となり、里山を形成することにも繋がるのです。

(「鎮守の森のプロジェクト」)

 獣害の本質――「警告」としての自然現象を読む

近年頻発する獣害や気象災害を、自然からの「警告」や「教え」として受け止めることが必要です。野生の動物たちを力で抑え込むのではなく、「なぜ彼らは出てこざるを得ないのか?」という視点から、私たちの暮らし方を見つめ直す必要があります。自然界に対しては、「人間が勝手に壊したのだから、限りなく元に戻す努力をすべき」という真摯な態度で向き合うべきだと思います。

三内丸山遺跡が1500年以上も続いたのは、彼らが自然を「管理対象」ではなく、自分たちを生かしてくれる「不可侵のパートナー」として深く敬っていたからだと思われます。彼らは森の恵みを一方的に奪うのではなく、クリを植え、育て、森のサイクルの一部として生きていました。私たちは、この先何百年かけてでも、かつての豊かな森を「動物たちの手に返す」覚悟が必要なのかもしれません。こうした「自然への畏敬の念」を絶えず持ち続けながら、里山の再生事業に取り組むことが重要です

現代の私たちには、単に「資源」として木や森を見るのではなく、森の健康を維持するための「サポーター」として関わることが求められています。人里に柵を作る前に、まずは動物たちの本来の家である「奥山」を、彼らが里に降りる必要がないほど豊かな広葉樹の森に戻すこと。動物が里に降りてこなくても生きていける環境を整備することが先決です。人間が奪った分だけ「お返しする」という発想が里山再生への第一歩となるでしょう。

(「中部経済新聞」)

 里山再生の現実――長期修復と制度設計の課題

現在、AIやドローンを使った監視、緩衝地帯(藪を刈る)の整備といった「即効性のある防衛策」に予算を重点投入し始めている段階です。ただ、こうした防衛策はあくまでも応急処置にすぎません。国が森林再生に向けて本気で動き出したとしても、森の修復には30年〜50年という長期的視点が必要不可欠です。

そのためには、教育を通じて自然管理の意義を教え、継続的に担い手を育成する必要があります。「里山」とは単なる自然の状態ではなく、「人間の営み(干渉)」があって初めて成立する「半人工的生態系」だからです。人が山に入り、枝を払い、下草を刈り、適度に資源を持ち出すことで保たれる「明るく見通しの良い境界線」なのです。人が手入れをやめてしまえば、たとえ植生を広葉樹に戻しても、すぐに鬱蒼(うっそう)とした原生林に近い藪に戻ってしまうでしょう。

三内丸山の縄文人は、人口が増えすぎたり環境が変わったりした際、潔く「居住地を移す」ことで対応していました。現代の私たちも、「どこまでを人間の領域とするか」という線引きを、改めて考え直すべき時期に来ているのかもしれません。

「共生」という言葉を、単なる「住み分け」や「排除」の道具として使ってはいけないと思います。人間の都合で壊してしまったバランスを、再び人間の都合で柵を立てて解決しようとするのは、根本的な解決ではなく、自然に対する傲慢さが形を変えただけかもしれません。本来の「共生」とは、人間が自然界の一部であることを認め、他の生き物たちがそれぞれの生を全うできる環境を、人間が責任を持って整えることです。私たちに求められていることは、「自然を管理する」ことではなく、「自然への歩み寄り」ではないでしょうか。

(「あおもり案内名人」)

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