「長崎の軍艦島がユネスコの世界文化遺産に登録されたことは知っていますよね」
「ええ、あれは何年前のことでしたか?」
「実は先ほど、いつかなと思って調べたのですが、今からおよそ5年前の2015年7月5日です」
「確か、明治日本の産業革命期の遺産ということでしたよね。ただ、それが何か?」
「昨日のニュースですが、韓国がその取り消しの示唆を含んだ書簡をユネスコに送ったとのことです」
「少し、分かりにくいのですが、取り消しを求めているのですか?」
「いえ、そうではなく、簡単に言えば、日本が約束した通りのことをやっていないし、言っていることが不正確であるので、そのことをユネスコの委員会でも討議をして、場合によっては取り消しを視野に入れての検討を要請したということです」
「もっと簡単に言えば、クレームをつけたということですよね。それに対して、日本の政府はどういう対応をしたのですか?」
「「引き続き適切に対応していくという、わが国の立場には変わりはない」という答弁ですね」
「『引き続き適切に対応』と言うと、また突っ込まれることになりますよね」
「そうですよね。テニスで言うと、常に腰を引いた状態でポールを打っているので、また攻められることになります」
「どういう返答がよかったのでしょうか?」
「『適切に対応しました』でしょ。文章を長くすれば、突っ込まれる危険があります。短いコメントで終わらせるのが基本です。ただ、そもそも日本が申請したことに対して他国が口を挟む権限などないと原則論を言わないので、いつまでもつきまとわれるのです」
「ここからが本論です ↓」
「軍艦島」が世界遺産になるまでの経緯
「軍艦島」は島の形が「軍艦」に似ているので、ついた名前です。正式名称は端島(長崎県長崎市高島町)です。長崎港から約19キロの海上にある「半人工島」です。現在は無人島ですが、「軍艦島クルーズ」ということで、周遊したり、上陸できたりということで、観光コースにもなっています。
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『軍艦島』は長崎県長崎市高島町端島の俗称。戦艦「土佐」に島影が似ていることからそう呼ばれるようになったと言われています。野母半島の北西、長崎港から約19キロの海上にある、小さな半人工島です。
かつては炭鉱の町として栄え、隣接する高島炭鉱とともに日本の近代化を支えてきましたが、時代の流れとともに昭和49年に閉山。軍艦島は伝説を残したまま無人島となりました。
軍艦島は、もともとは南北320メートル、東西120メートル岩礁だったのですが、炭鉱から出てくる「ボタ」で周りを埋め立てていくうちに、最終的には南北480メートル、東西160メートル、(面積6.3ha)の大きさにまでになったとのことです。
石炭が発見されたのが1810年ですが、採掘が開始されたのは明治3(1870)年からです。明治23(1890)年に三菱がこの島を買収し、閉山の昭和49(1974)年までの約80年間、三菱資本による石炭採掘(海底炭鉱)が行われました。当時のエネルギーの主流は、石炭です。「黒いダイヤモンド」と言われたこともありました。それが、明治、大正、昭和の時代の工業発展を支えたのです。明治末期には八幡製鉄所にも原料炭を供給するなど、日本の近代化を支えてきたのです。
「黒いダイヤモンド」を採掘するために多くの人が必要です。明治末期には島の人口が2000人を超えてしまったため、それに対応するために、「我が国初の鉄筋コンクリート造りの高層アパートの建設が大正4(1915)年から始まりました」(松木國俊『軍艦島』ハート出版.2018年/17ページ)
狭い所に多くの人が集まっていますので、住居を確保するために上に空間を求めるしかないのですが、高層住宅がハイピッチで建てられていきます。「大正5(1916)年に7階建ての30号棟が完成し、大正7(1918)年には16号棟から20号棟まで、9階建てが4棟、6階建てが1棟竣工しています」(松木國俊 前掲書.17ページ)
最大の人口は、戦後の5300人です。そんなこともあり、小中学校も作られました。「食堂や映画館、雀荘などの娯楽施設もあり」、火葬場と墓以外はすべて島内で事足りるような状況で、「生活レベルは確実に本土を上回っていた」(松木國俊 前掲書.17ページ)のです。
「Forced to work」(強制労働)を認めたところから、おかしな方向に
閉山(1974)となり無人島になったのですが、日本の工業化を支えた石炭産業の現場を後世に伝えようという運動が自然発生的に起きます。そんなこともあって、2003年に「軍艦島を世界遺産にする会」がNPO法人として発足します。
そして、この頃から韓国がそれに対する妨害活動をし始めます。どうして、韓国はそのような情報を知る立場にあったのか、ということですが、日本国内の反日勢力の策動があったのです。この辺りの構図は慰安婦と同じです。ありもしないことをでっち上げ、それに基づいて反対運動をし始めるというものです。
『軍艦島に耳を澄ませば』という著者不明のでっちあげ本があります。そもそも、本や論文というのは文責という言葉があるように、実在の人物の名前を入れることにより文章全体に責任をもつという考え方があります。無署名での出版を行った出版社の良識を疑います。
ところで、何故自国民をおとしめるようなことを平気で書くのでしょうか。その心理は何なのかと思う人がいるかもしれませんが、この辺りの真理は、戦前の「朝日新聞」と同じです。つまり、政府を弱体化させる行為は、革命への一歩という単細胞思考によるものなのです。「朝日新聞」は99%負ける戦争に国民を駆り立てるために、熱狂的な記事を書きました。狙いは、敗戦による権力基盤の弱体化をねらったのです。
同じ発想です。ウソでも何でも構わないのです。結果オーライというのは、兵法の教えでもあります。ウソを書き連ね、その結果韓国が反日行動をとれば、日韓が離反し合うし、権力基盤も弱体化します。韓国の反日は一挙両得だと思っているでしょう。そして、そのタイミングで言質(げんち)を取られています。そうなると、それ以降はその言葉を足掛かりに責められることになります。お花畑の中で生きていると思っている政治家や官僚が多すぎるのです。
令和版「脱亜論」のすすめ
考えてみれば、近現代以降、半島や大陸に関わって良いことは何もありませんでした。「近所は遠く付き合え」というのが、先人の教えです。それをそのまま、忠実に実行する時期なのかもしれません。
今回のウイルス禍によって、そういったことを気付かせてもらったのではないでしょうか。中国とはサプライチェーンの問題、韓国とは貿易や観光の問題について考えさせられるようなことがあったと思います。
徴用工の問題も絡んで、日本企業の資本売却問題が今後起きるかもしれません。慰安婦の問題も含めて、なぜこのような馬鹿げたことが起こるのか。すべては、戦後の反日教育の結果です。反日教育は現在も社会科の教科書を使って小・中・高と行われていますが、そういった教育の対策をしないと日本の国自体が沈みかねません。
彼らが何故反日に走るのか、理由は、正統な政府ではないことを国民に気付かせないためです。歴史的に見た場合、李氏朝鮮の流れを大韓帝国が受け継ぎます。国名を帝国としたのは、中国の冊封体制からの離脱を意味しています。それまでは、清の庇護下にある王国だったのですが、日本の後押しもあり自立した国になったのです。今で言う、独立国です。
その大韓帝国の皇帝である李氏王族は、1910年の朝鮮併合の際の勅諭により、日本の皇族となります。単なる植民地支配であれば、支配に邪魔だと判断すれば、首を斬るというのが常道です。ところが、日本は丁重にもてなします。
1920年、戦前の11宮家の一つであった梨本宮の守正王の第1王女・方子妃を、韓国の李氏王族の李垠(りぎん、イ・ウン)殿下と結婚させます。方子妃は真面目で気品のある女性で、昭和天皇の妃候補の一人とされていました。そんな方子妃が自分の結婚相手を知らされたとき、「なぜ、自分が異国の王族に嫁がなければならないの」と言って、泣き崩れたといわれています。
しかし、いざ結婚という段になった時は、私的感情を振り捨てて両国の友好のためと嫁がれたと言われています。
李垠殿下は日本の文化に造詣が深く、日本の礼儀作法なども身につけており、真面目で寡黙でした。当初、結婚を嘆いていた方子妃もそんな殿下を心から慕うようになります。李垠夫妻は旧李王家邸(1930年建設)に居住しました。この邸は2011年に閉館した赤坂プリンスホテルの旧館で、現在、「東京ガーデンテラス紀尾井町・赤坂プリンスクラシックハウス」として残っています。夫婦はここで、仲睦まじく暮らしたと言われています。(参照 PRESIDENT WOMAN Online)
戦後になって、日本に李王朝の血筋の者がいることを半島の国に連絡したところ、韓国の李承晩も北朝鮮の金日成も拒絶したということです。朝鮮の正統な血筋を絶った上で建国されたのが、朝鮮半島の2つの国なのです。
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