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アイデンティティを意識した教育が必要 ―― 学校は自分の生き方を探し、見つけるところ / 学習するだけなら塾と同じ

女性

「前回は英語のことを話題にしたのですが、実は私の小学3年生の息子が学校で英語を習っています」

「何て言っていますか?」

女性

「英語の歌を歌ったり、アルファベットを書いたりで楽しいとか言っていましたけど……」

「今年度から英語が必修になってしまいましたからね。小3、小4は英語に親しむということで週1時間ですが、徐々に難しくなっていきますからね」

女性

「今の息子の姿を見ていると、6年後に本当にスピーキングテストを受けることができるのかしら、と不安になります。日本語がまだまだ怪しいレベルですからね」

「ビジネスや研究者の最前線では英語ができる人材が足りないと言っています。本当に頂点レベルを高めたい場合は、全体を引き上げようとしないで、特化するシステムを作る必要があります」

女性

「全体が上がれば良いですが、ウチのを見ていると引き離されそうなんです」

「実態に合わずに全体のレベルを引き上げようとすると、そうなります。日本の場合は全国一斉教育なので、農漁村地域が学区の学校でも、都心にある学校でも同じことを行います」

女性

「全国一斉が良いような、悪いような感じですね。全体を巻き込めば、レベルを上げることは難しいですよね」

「その辺りのお手本は、野球にあります」

女性

「野球ですか?」

「世界のトップで活躍している人材を日本の野球界は輩出しています。その人たちをどうやって育成してきたかを見れば、有能な人材の育成の仕方の基本が分かります」

女性

「私は大谷翔平しか知りませんが、彼は小・中学生は地域の野球チームの中で活動して、高校野球の名門校に入って、そこから日本のプロ野球ですよね」

「そこでさらに実力を高めて、今は大リーグで大活躍しています。逆に言うと、世界レベルの選手を作るためには、小学生のうちから野球に特化した育成をする必要があるということです。学校の体育とは全く関係ないですよね。この考え方を英語にも当てはめて考えれば良いのです」

女性

「逆に言うと、小学校3年生で英語遊びをしている場合ではないということですね」

「ボール遊びは2、3歳で始めないとだめなので、やはり幼児の時期からバイリンガルを養成するつもりで指導する必要があります。本当にトップの人材が欲しいのならばの話ですよ」

女性

「バイリンガルにしたいのなら、早い方が良いと聞いたことはあります」

「特に日本語の母音を聞き慣れてしまわないうちに、英語の発音を聞かせておくのが良いと思います。それらを含めて、別枠で育成することを考える時期なのかもしれません。今年から、就活も専門人材と一般とを分けようという動きが出始めています。この流れがこれからは強まるでしょう」

女性

「親として心配の種は尽きないということですね。ここからが本論です ↓」

 アイデンティティを意識した教育

前回はレディネスという観点から、日本の英語教育の問題点を指摘しました。今日はアイデンティティという観点から述べてみたいと思います。

アイデンティティというのは、自己同一性と訳されていますが、簡単に言えば自分はどういう個性をもった存在なのかを認識させるということです。そして、その個性・特性を自分も含めて、関係している人も理解しているという状況を作るということです。要するに「自分とは一体何者なのか」を自分自身が知るということです。簡単なようで難しいと思います。何故、難しいのかと言えば、自分の姿、顔かたちも含めて自分自身が一定の距離を置いて見ることが出来ないからです。

人間の眼は外を見るために作られていて、自分の内面を見るような仕組みになっていません。だから、普通に暮らしていると、周りの情報は入ってきて認識が深まりますが、自分の情報は直接自分に入ってくることはありません。入ってくるのは、あくまでも間接です。自分の姿、形は鏡や写真、映像という媒体を通して見ているように、自分の個性や特性も他人の目という媒体を通して知ることになります。

つまり、自分自身を認識するためには、どうしても友人からもたらされた情報が極めて重要となります。ただの知り合いではなく、自分のことに関心をもって見つめてくれる親しい友人を何人か作る必要があります。小学1年生にとってまず必要なのは、友達づくりです。これが、自分探しの第一歩となります。ここで躓(つまづ)くと、その後すべてが上手くいかなくなる確率が高まります。不登校やいじめが増えているのは、この理屈が分かっていない教員が増えたからでしょう

(「ネイティブキャンプ英会話ブログ」)

 学校は自分の生き方を探し、見つけるところ

教育というのは、教えて育てると書きます。教師が教えて子供が学習する、ここで終わってしまったら学習塾と変わりません。社会の人の多くの関心が、学習にしか向いていない状況がありますが、学校は学習したことを基にしてこの社会で生きる方向を決めるところです。

人生というのは一つの大きな旅です。その旅が上手くいくためには、目的とルートをきちんと決め、それが現実的で実行可能なものなのかを検証する必要があります。目的がきちんと定まる必要はありません。方向さえ定まっていれば良いのです。本人の別の能力が伸長して、違うことを考えるようになるかもしれないからです。その時点で、自分なりに周りの意見を聞いて真剣に考えたことが大事なのです。

(「教育研究会ARCS」)

 すべての職業に対応するようなカリキュラム――一長一短あり

現在の日本で行われている学校教育は、すべての職業に対応できるようなカリキュラムになっています。農村の過疎地域に住んでいる子供も、その学区で学校教育を受けて、志と能力さえあれば世界的な学者にも、世界で活躍する商社マンにもなれます。

応用が利くと言えば聞こえは良いのですが、目標が明確に定まっている人にとっては無駄な科目が多いとなります。だから、国として本当に重要な人材が一定数必要ならば、別枠で教育をするシステムを作るべきなのです。

前回話題にした英語のスピーキングですが、義務教育段階では全く必要のないものです。そんな時間があれば、日本語のスピーキング力をつける指導をした方が子供たちにとってプラスになると思います。全体を巻き込んでのスピーキング、何のために外国語大学があるのかと思います。

日本語によるスピーキング力がなければ、英語のスピーキング力は伸びません当たり前です。そして、スピーキング力を伸ばすためには、かなり多くの時間が必要です。ただ、日本語によるスピーキング力さえあれば、大学4年間英語のスピーキングに集中して学習すれば、かなりのレベルに到達できるはずです。そのための外国語大学だと思っています。

(「NHK」)

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