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日中国交50年を振り返る ―― 中国の中興の祖、鄧小平 

  • 2022年10月11日
  • 2022年10月11日
  • 歴史
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女性

「性悪説の話をした後で、中国のことを話題にする。何となく終着駅というか、結論が見えていますよ」

「それは大したものです。この間の私とのやりとりの成果ですね」

女性

「中国という一筋縄ではいかない国を隣国に抱え、太平楽に性善説だけのままではどうしようもないということですよね」

「生き方として真っ当な道を追求するのは当然として、そのためにも性悪説の考え方を理解する必要があるということです」

女性

「まともなショットだけではなく、ドロップショットもあるということですね」

「その例えが正しいかどうか分かりませんが、全く別な視点から日本と日本人を見ている人たちがいることを理解する必要があるということです」

女性

「それが国を守ることに繋がるということですよね」

「そうですね。早い話が、世界の全ての国が性善説で説明出来れば、それこそ軍隊は全く必要ないという話になります」

女性

「日本国憲法の「前文の世界」ですね」

「まさにおっしゃる通りです。『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』とあります」

女性

「大きな戦争が終わって、大きな夢を抱いたのだなというのは分かります」

「大きな夢を抱いて、世界は平和になって欲しいと思う余り、周りの国も平和を望んでいるはずだと思うのは間違いです」

女性

「人は自分の考えの延長線で、相手を視てしまうところがありますからね」

「そこを一番気を付けなければいけないところでしょうね」

女性

「ここからが本論です ↓」

 今年は日中国交50年という節目の年

50年前の1972年に日中共同声明が出され、1978年に日中平和友好条約が結ばれます。条約というのは、国と国との約束ですが、その条約のネーミングの仕方には一定のルールみたいなものがあります

国家間の交流を始めましょうという時は「和親条約」、交易の場合は「通商条約」あるいは「通商航海条約」、過去の経緯があったが改めて仕切り直す場合は「基本条約」というように、お互いの関係を表すような名称を使います。ところが、中国の場合は、共同声明を受ける形で、いきなり「平和友好条約」が結ばれます。「平和友好」というのは、個人間で言うと親友ということです。親友になるまでには、両者の間で長年の友達付き合いが普通はあります。時には、喧嘩をしたことがあるかもしれません。それもひっくるめて、お互いが欠かせない友人と認め合うことによって無二の親友となります。

ところが、そういった両国間の官民レベルの交流が殆んどなく、ただ単にアメリカの後追い外交で結んだような条約です。今になって、様々な不協和音が聞こえていますが、そういった手続きをしていないので、それはある意味当たり前なのかもしれません。こちらの都合で「親友」になってもらった部分があるのです。

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 波乱万丈の人生を歩んだ苦労人――鄧小平

日中平和友好条約が結ばれた頃は、日本は100%祝賀ムードであったことは間違いありません。いきなり海の向こうから親友が現れ、その友好の象徴が上野のパンダだったのです。日本中が中国ブームで湧いた一瞬でした。日本は手放しで喜んだのですが、本当はそれに「待った」を掛ける意見が必要だったのです。日本が友好を満面の笑みで迎えていた時に、中国は笑顔を作りながら、冷静に次の策を考えていたからです。

その時の指導者が鄧小平です。結構、数奇な人生を送っています――フランスに留学して、その留学中に中国少年共産党に入党するものの、そのことでフランス政府に危険分子と睨まれたので、そこを離れてモスクワに渡ります。このモスクワ時代に毛沢東や後の中華民国総統になる蒋経国と知り合いになります。

1949年の中華人民共和国の成立以降は、解放地域の復興に務め、その功績が認められ毛沢東に見出されますが、彼との間は付いたり離れたりをします。1968年には一度は地方に追放されますが、1973年には国務院副総理に復活し、経済の立て直しに着手することになります。その年の8月に中央委員、12月には副主席となります。一党独裁国家ならではの復活、つまりすべてはトップの意向優先社会のお陰で指導者の地位を得ることになります。今の中国の経済発展は鄧小平が基礎を作ったと思います。共産主義者らしからぬ柔軟な発想と物腰柔らかな話ぶり。日本でも「鄧おじさん」と言われて親しまれていたのですが、彼の実像はしたたか、そのものだったと思います。

(「日本経済新聞」)

 中国の中興の祖―― 鄧小平

鄧小平によって中国の改革開放路線が敷かれるのですが、そのきっかけを作ったのはアメリカと日本だったと言われています。中国が国連加盟を果たし、1974年に国連本部があるニューヨークを訪れ、その威容に驚嘆し、その後日本に来て東海道新幹線に乗り、日産やパナソニックの工場を見学してその設備に感銘を受けたと言われています。そういった衝撃が、社会主義市場経済を中国において導入する動機になったと言われています。

若き頃の留学体験と人生の半ばで味わった辛酸をテコにしながら、毛沢東の力を巧みに使いながら党内闘争を勝ち抜いた彼の社会に対する考え方は、非常に合理的なものだったと思います。中国の「中興の祖」と呼んでも良いと思っています。

「白い猫であれ黒い猫であれ、ネズミを捕るのが良い猫である」彼の有名な言葉です。共産主義者は、どうしても体制にこだわりがちです。それを戒めた言葉です。経済力を高めなければ、どうしようもないということを言いたいのです。日本の隣国には、体制だけにこだわって、経済はそっちのけで核開発に邁進している国もありますが、それでは国の未来がないと彼は考えたのです。資本主義国の中で良いものがあれば積極的に学ぶ、場合によっては獲ってくるという姿勢が大事という教えです。

韜光養晦(とうこうようかい)も鄧小平の言葉です。意味は、力がない間は才能や野心を相手に悟られないように隠して、その間に力を蓄え、いざという時までひたすら耐え忍ぶという、一つの外交戦術です。敵国である資本主義国から学ぶべきものを学び、もう追い抜いたというまでは「ネコを被る」ことを教えたのです。多分、彼自身が自分の人生を振り返る中で編み出した言葉だったと思います。まさに、性悪説の本流を行く言葉でもあります。

ところが、中国は今から約10年前に日本を追い抜いて世界経済第2位の国となりますが、その頃から独裁国家としてのキバを周辺諸国に剥き始めたのです鄧小平の感覚からすると、もう少し我慢するべきだったというコメントが返ってくると思います。習近平の性格上、我慢仕切れなかったのでしょう。そのことが、吉と出るか凶と出るかは、今後の展開次第で分かります。

(「note」)

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