
「前回のブログでは、日本語は主語がなくても成り立つという話がありましたが、子どもに聞くと、学校では、主語、述語はどれという教え方をしているみたいです」

「日本語は言語学的に見ても、非常に特異な言語です。そのことを、まずきちんと教える必要があります」

「母音文化は教えました」

「どうして、母音文化の国になったのか、知っていますか?」

「南方からの人たちが日本列島に入ってきた一つの証拠だ、と前におっしゃっていましたよね」

「母音を基礎とする人たちと子音を基礎とする人たちが入り混じったと思います。しかし、子音は発声が難しいです」

「それで自然に母音で統一されるようになったと……」

「多分、そうだと思っています。北方から来た人たちは子音文化の人たちです。日本語はウラル-アルタイ語族に属しています。最後に動詞を付ける語族です」

「文法は北方から採り入れて、発音は南方からなんですね」

「移民問題が最近、話題になっていますが、実は日本は南北の移民たちによって作られた国ということが、日本語を分析しただけでも分かります」

「原日本人というのは、いないということですね」

「日本列島が形成されたのが約2000万年から1500万年前だと言われています。その後、南や北から人々がこの列島に渡り、混血が進んだと考えられています」

「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「講談社コクリコ」提供です。」
共同体の中で育まれた「述語の言語」
以前にブログで日本人の起源について書きましたが、『古事記』の中に、天上界のイザナギとイザナミが矛(ほこ)を2人で持って「こおろこおろ」と海をかき混ぜて島を作る場面があります。この神話は、この国は周りから人々が集まって作った国であることを物語っています。発音は南方から、文法は北方から採り入れ、表意文字は中国から、そしてそれをもとに表音文字を日本人が編み出したのです。日本語そのものが、「合作」の言語なのです。
日本語は主語を明示しなくても通じる言語です。言語学者の金谷武洋氏(新潟大学名誉教授)の言葉を借りると「述語言語」なのです。そこが「主語言語」である英語と大きく違う点です。なぜ、「述語言語」が誕生したのか。異なる背景を持つ人々が共に生きるためには、互いの立場を推し量り、移民どうし、向き合う必要があったからだと思っています。多分、厳しい自然環境の中、お互い協力しなければ生きていけないような状況が、言語のかたちにも反映されたと考えられます。
日本語には、相手に共感を求めるような言葉が多いのはそのためでしょう。朝の「おはよう」は「早いですね、お互い頑張りましょうね」というニュアンスが含まれています。英語の「Good morning」は「私はあなたが良い一日を送れることを願っています」というメッセージ性の強い言葉です。主語がないために、容易に相手に共感を求める文章を作れます。そんなことから、和歌や俳句、川柳といった芸術が生まれたのです。日本人が日本語の意義をきちんと理解し、それを主体的に習得することが求められています。

(「Instagram」)
「読める」と「理解できる」は違う
近年、文章が読み取れない子が増えているといいます。2018年、新井紀子氏の著作『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社刊)がベストセラーになり、大きな話題になったことがありました。この本の中で、簡単な意味内容が理解できない子がいかに多いのかを、具体例をもって提示しています。「読むことはできても、意味が理解できない」と言われて、「えっ」と思うかもしれません。「読解力」という言葉自体が誤解を生む原因になっているのかもしれません。読むことと、理解することは別の能力だからです。
新井氏の言葉を借りると、「音韻符号化はできているが、心内表象化ができていない」ということになります。要するに、文字は記号なので、条件反射的に読めるのですが、それと文章理解とは違うということです。「音読」でスラスラと読めたとしても、そこで安心してはいけないということです。
文章の意味内容が理解できない子が増えているといった声が現場から上がるようになったのは、ここ20年くらいだと思います。読書の絶対量が減ったことが大きな原因です。ベネッセの調査によると、スマホやSNSの普及に伴って、この10年間で本を読まない子が1.5倍に増加しているとのことです。
「読むとは、単に音声化することではなく、意味を構築する知的作業である」。その基本が揺らいでいるのです。「音読」の宿題が学校で出されることがあると思います。その時に、お父さん、お母さんは一言声を掛けてあげて下さい。「上手に読めたね。ところで、何が書いてあったの?」と。

(「メルカリ-Mercari」)
書き込みながら読むという「対話」
ただ単に活字を目で追って読むのではなく、ペンを片手に文章を読むようにします。読書は受動的な作業ではないからです。要するに、本と対話するように読むのです。理解しにくいところに波線をして「?」のマーク書き入れる、重要だなと思ったり、良い表現だと思ったりした場合は赤線を引く、重要人物は〇で囲む、分からない単語は赤丸で囲んで調べた意味を書き込むなど、作業を進めながら本を読む習慣を付けるのです。
試験の時も同じ要領で問題と対峙します。目で追い掛けるだけでは、ケアレスミスが出やすいからです。算数の問題でも何を聞いているのかが分かる文章にアンダーラインを引いたり、数字を囲んだりしながら、一つひとつ確認するように読み込んでいきます。こういった「クセ」を付けておくと、入試といった緊張感が高まる場面でも読み間違えることなく問題を解くことができます。
一番多いミスは「ない」を見落としてしまうことです。「そうでないものを選びなさい」という設問が出ることがあります。早く解かなければいけないという「あせり」が「ない」を読み飛ばしてしまうのです。そして、間違えてしまうという失点につながるのです。
現在、小中学生にタブレット端末が配布されています。今、文科省はデジタル教科書の2030年度の本格運用を目指して動いていますが、デジタル教科書には鉛筆やボールペンで直接書き込みが出来ず、「対話」ができません。書き込みによって生まれる「対話」の感覚が失われることは、読解力の形成に影響を与えかねません。少なくとも基礎的読解力を養う段階では、紙媒体による学習が不可欠です。教科書は自分なりに読みこなすことによって愛着も湧きますし、学力もつくものです。少なくとも、小・中学生にはデジタル教科書は不要だと思います。小学校の校長先生の9割がデジタル教科書の導入に反対をしています。変なところに費用をかけないで、タブレットも貸与で良いと思っています。 【参考論文】 金谷武洋「日本語こそが世界を平和にする鍵」(『致知』2021.1月号)

(「NIKKEI」)
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