「徴用工裁判で進展があったようですね」
「今、ちょうど記事を読んでいるところですが、ここに「新日鉄住金の資産を差し押さえる決定が同社側に伝わったとみなす手続きを始めた」とありますね」
「資産の差し押さえとありますが、どうなってしまうのですか?」
「差し押さえというのは、相手側にお金の支払いを求めているが、支払ってくれない時にその対抗措置として行うものです」
「韓国最高裁は、2018年に元徴用工への賠償を命じる判決を確定させました、とありますね」
「この判決について、どう捉えるかなのですが、日本と韓国で考え方が違います」
「考え方が違うので、当然対応も違ってきますよね」
「韓国は属地主義の考え方で、韓国国内のことについて、韓国の司法に従えということで来ていますが、ただそれも含めてお互い条約を結んで決着している問題というのが日本の立場なのです」
「どうなってしまうのですか? 国際司法裁判所の審判を仰ぐというのはどうですか?」
「国際司法裁判所の判決は、勧告といった法的効力しかありません。韓国にとって都合の悪い判決が出た場合、彼らがそれに従わない可能性もあります」
「そうすると、また最初に戻ってしまいますよね」
「そうなんですよ」
「どうすれば、良いですか。ズバリ解答をお願いします」
「チコちゃんに、聞いてみよう」
「はあっ……!?」
「冗談はさておいて、もうこうなったら、資本撤退の準備をするしかないでしょ。冗談なような話が、どんどん現実化しているのです。時間を稼いで、資産売却を進める、ある程度進んだら断交に踏み切るということだと思います。韓国には、そのようなつもりでいるけれど、それでも良いかと聞くことです」
「いいよ、と言いそうですね」
「望むところ、という覚悟がないと、結局見透かされ、また失敗します」
「大事なのは、勝負魂でしょうか (ここからが本論です) ↓」
「韓国併合」ではなく、「日韓併合」にすべし
日韓併合(1910年)は、「韓国併合ニ関スル条約」に基づいて行われました。ここで言う韓国は、李氏朝鮮の流れを汲む大韓帝国のことであり、現在の韓国ではありません。当時の大韓帝国は李氏朝鮮の流れをくみ、朝鮮半島全体を統治していましたが、現在の韓国は半島の南半分を統治しているに過ぎません。そして、李王朝の流れをくむ李垠(りぎん)殿下が、戦後に帰国しようとした時に、断固拒否したのが韓国初代大統領の李承晩だったのです。だから、そこで王朝としての流れが途絶えてしまっています。
殆どの教科書は「韓国併合」になっています。そうすると、教える側も生徒も今の韓国を支配したかのように思い、日本はひどい国と誤解をしたまま成人し、そして反日に傾くという今までのパターンを繰り返すだけです。ですから、まぎらわしいので日韓併合とするのが、誤解を与えず、かつ意味的にも正確だと思います。
歴史に「たられば」を持ち込むのは良くないのかもしれませんが、もし大韓帝国が自立できるような状態であれば、日本は何も手を出さなかったし、出す必要はなかったのです。当時は、西欧列強の国がアジアの地に大挙して押し寄せるという、植民地争奪戦の真っ最中の時代です。清が欧米列強の虫食い状態です。大韓帝国は風前の灯状態だったのです。そのまま見捨てれば、どこかの国に支配されることになることが必定でした。実際に、李氏朝鮮から大韓帝国になってからも、政治的に機能不全の状態が続いて、民心は離れていました。
そんなことから、日本の統治を望む声が半島の人々の間であったことは確かです。もちろん、反対する人たちもいたでしょう。1910年、日韓併合条約を結び、大韓帝国を日本の一部として「併合」し、日本が合法的に統治することになります。朝鮮は「日本の一部」となり、国際法的にも、日本の連邦を構成する地域の一つという位置付けになったのです。そのような併合にあたって、日本は周辺諸国と合意を取り付けています。そこには日本の安全保障の問題が絡むと考えてのことだからです。
植民地となれば、あくまでも他国扱いとなります。ただ、併合となれば自国のことになります。朝鮮半島に立ち入ることは、日本に立ち入ることと同じになります。日露戦争に勝った後です。他国へのプレッシャーもかかり、容易に半島に近づけない環境が作られることになります。現に、その後終戦まで朝鮮半島には外国勢力は近づいていません。単なる植民地支配ではなかった、ということです。
日韓併合は日本にとってやむを得ない選択であった
1910年の日韓併合を詳しく書くのは、そこの理解が不充分なため、そこから様々な虚偽が連鎖反応的に起きているからです。
併合当時の半島の様子について、多くの証言があります。
「朝鮮の王室は怠惰であり、官職を占めようとする貪欲な人々がひしめいており、彼らは金と権力のある人に媚びへつらった」(ウィリアム・フランクリン・サンズ/1874-1946/アメリカ人外交官)。
「民衆は貧困の中で苦しんでいるが、役人たちは民衆から搾取した富で放蕩の限りを尽くしている。朝鮮の民衆は貧しく、無知で、怠惰で、迷信を信じるが、このような属性は、節操がなく、貪欲な政府が生み出した不幸な結果だ」(ヘッセ=ヴァルテッグ/1888-1918/ドイツ人旅行家)
「ソウルは至る所が不衛生であった。高級官僚が集まっている豊かな村も同様だ。大きな瓦葺きの家の堀の前に下水路があったが、野菜などの生ゴミがたまっていて、鼻がひん曲がりそうな悪臭が漂っていた。そんな道を高級官僚たちは平気で輿や馬に乗って通って行く。衛生状態が劣悪なため、都や大きな村には絶えず伝染病が蔓延しており、都の人口の1割近くがコレラやペストで死ぬという悲惨な出来事もあった」(ホレイス・ニュートン・アーレン/1858-1932/アメリカ人宣教師)
この位でやめますが、以上は池萬元著の『反日への最後通告』(ハート出版.2020)に掲載されているものです(58-63ページ)が、まだまだあります(これの30倍くらいあります)。いい話は皆無に等しいです。
どうして、彼はこのように自国の恥を自著で紹介しているのかと疑問に思うかもしれませんが、まず当時の状況を証言により客観的に知り、後はデータに基づいて考え、何が史実なのかを知って欲しいという著者の思いがあるからです。そうしなければ、真の韓日親善はあり得ないと考えているのです。
日本は当然このような状況を熟知していました。だから、伊藤博文は併合に反対してのです。好んで併合した訳ではないということです。実際に資源もない、土地も痩せている、山ははげ山で森林資源もない、ということは近海で獲れる魚は不味いことが分かる。すべて無いないづくしだったのです。だから、福沢諭吉は関わるなと言っていたのです。関わらなくて済むものならば、関わりたくないというのが日本の本音だったと思います。
帝国主義的な施策と解説している本もありますが、時代的に合っていません。日本の軍部が暴走し始めるのは、昭和に入って5.15事件(1932年)、そして2.26事件(1936年)が起きて以降です。日韓併合はまだ明治の時代の話です。資源も何もない所を併合しても、経済的に何もプラスなことはありません。持ち出しばかりが増えるだけです。
併合当時の日本は、第二次産業革命期の頃です。ようやく資本主義的な大量生産の態勢が組めるような状態になってきた頃です。経済的にそれほど余裕があるような状況ではありません。はっきり言って、併合はお荷物ですし、安全保障問題がなければ関わっていないと思います。ただ、それでも日本は責任上、インフラ整備をし、学校を建て、教育を普及させ、帝国大学までつくります。ダムをつくり、工場を建て、産業基盤も整備します。感謝の言葉が出てきても良いくらいです。
慰安婦も徴用工も国内問題
併合をした責任感から、日本は朝鮮半島を本国(内地)と同じように考え、インフラ整備や教育環境を整えようとします。このあたりは、データがありますのでインターネットなどで確認していただければと思います。そして、当時の日本人が朝鮮半島をどのように考えていたのかは、王族に対してどのように臨んだのかでおよそ分かります。
西欧列強の国や中国であれば、現地の王室や王族は統治の邪魔になるので首をはねる対象と考えたと思います。日本は最大級の敬意を払います。李王朝の血筋を絶やさぬように日本の皇族を嫁がせます。戦前の宮家であった梨本宮家の第一王女の方子(まさこ)妃を李垠に嫁がせます。彼女は昭和天皇のお后第一候補と言われていた方で、そのことを知った時は、相手が日本人でないため、嘆き悲しんだと言われています。ただ、正式に婚約を告げられた時は、「よくわかりました。大変なお役だと思いますが、ご両親のお考えのように努力してみます。」と答えたと伝えられています。
慰安婦と徴用工の問題をこじれさせた最大の問題は、日韓の歴史が日教組教育によって日本人に歪んで伝わり、それが回り回って韓国にも伝わり、謝罪外交が始まり、それがかえって問題の本質を覆い隠し、拗(こじ)れたものにしてしまった、というのが今の姿ではないかと思っています。
そもそも慰安婦の問題も徴用工の問題も、1965年の日韓基本条約の時点で何も話題に出ていません。それ以降付け足しのように出てきた問題です。それを一つひとつ取り上げたために、問題がさらに複雑になっていったのです。
そして、慰安婦の問題も徴用工の問題も、すべて「日本国内」の問題です。その後成立した外国の政府(韓国)が、賠償請求できるはずがありません。例えば、今国内で起きている問題について、被害者が日本政府に賠償責任を追及できるのでしょうか。時間外の強制労働をさせたからといって、企業を訴えることはできますが、政府(国)を訴えることはできません。ましてや、その労働者の国籍が仮に外国だとして、その国が日本政府を訴えることはできません。同じ理屈です。少し考えれば、分かることだと思います。
「無理が通れば道理が引っ込む」という諺があります。無理な話に限りなく付き合って、訳が分からなくなり、挙句の果てに日本企業の資産差し押さえというところまで来てしまったというのが現状です。
この一連の流れの中で教訓とすべきことは、①まともな教科書をつくること ②まともな歴史を教えられる教員を養成すること ③韓国とまともに話し合わないこと ④まともな政治家を養成すること こんなところでしょうか。
読んで頂きありがとうございました。
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