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王室のあり方を考える / 象徴天皇制 ――「権威と権力の分離」原則は日本人の知恵

女性

「エリザベス女王が死去され3日後が国葬だそうですが、イギリス国民が女王の弔問に長い列を作っていたのが放映されてびっくりしました。最後尾の人が辿り着くのに22時間かかるとか言っていました」

「弔問の列が16キロだそうです。24時間以上かかるのではないかと言われていますが、「女王のためならいつまでも待つ」と言ったイギリス人女性の声をテレビは紹介していました」

女性

「そういうのを聞くと、本当に慕われていたのだなと思います」

「市民革命がありましたが、イギリス国民は王室が残って良かったと思っているのではないでしょうか」

女性

「革命で王室を廃止したところもありますものね」

「今になって残しておけば良かったと思っている国もあると思います」

女性

「日本の天皇陛下は今までのお付き合いもあり、国葬に出席されるとのことですよね」

「天皇は父母以外の葬儀には出席しないというのが原則です。それを曲げて出席されるのは、エリザベス女王との3代にわたる天皇との交流があったからです。昭和天皇は皇太子と天皇に即位してからの2回、上皇さまは1953年の女王の戴冠式に出席したのを最初に8回直接お会いしているそうです。そして、天皇陛下はオックスフォードに約3年留学しています」

女性

「折角ですので、イギリスの王室との交流史を調べてみたのですが、思った以上に古くて驚きました。1869年にイギリスの王子が来日しています」

「大事な絆ですので、育くんでいって欲しいと思っています。そして、こういう時に、よりによってロシアと中国が首脳会議をしたというのは、ある意味歴史の皮肉だと思っています」

女性

「どこが皮肉なんですか?」

「ロシアも中国も、王室を廃した国だからです」

女性

「ロシアは革命の動乱の中で、ロマノフ王朝が崩壊したと教わりました」

「1917年のロシア革命ですね。教科書には書かれていないのですが、最後の皇帝ニコライ2世は夫婦と子供5人すべて家族もろとも惨殺され森の片隅に葬られました」

女性

「それを掘り起こして手厚く葬ったということは聞きました」

「ソ連崩壊後のことですよね。今は聖堂が建てられ、そこに葬られています」

女性

「ここからが本論です ↓表題は「小坂達也の帝王学サロン」の提供です」

 王室の存在を考える

世界は約200か国の国で成り立っていますが、その中で王室がある国は28か国です。ヨーロッパで王室をもっている国は、北からノルウェー、スウェーデン、イギリス、デンマーク、オランダ、ベルギー、スペインの7か国です。

日本の皇室は世界で一番古い伝統を有しており、これは「ギネス世界記録」にも認定されていますが、2番目に古い王朝の国はデンマークです。現在の女王が54代目です。

政治的に言うと立憲君主制ということになります。

 「権威と権力の分離」原則は日本人の知恵

イギリスの王室のあり方を説明する言葉としてよく使われるのは、「君臨すれど統治せず」という言葉です。これは、17世紀の名誉革命によって確立した原則ですが、実は日本の皇室制度はその態勢を古代の天武天皇の時代には確立しています。

象徴天皇制は現在の憲法になってからと思っている人が結構いると思いますが、象徴天皇の歴史は約1300年続いています。言葉を換えると、「権威と権力の分離」ということです。何故、分けようと考えたのか。その辺りは推測で答えるしかありませんが、権威と権力を一手に引き受けると、攻撃の対象になるという判断があったと思います

つまり、政治的に何か失政があれば、責任をすべて取らなければならず、場合によってはそこで代が途切れ、国内の治安が乱れる可能性があります。多分、そういうことを中国の古代の歴史を学んで思ったのでしょう。中国は凄まじいまでの王族殺戮を繰り返していました。権力を奪取した勢力は、前の王朝関係者を女、子ども関係なく皆殺しにしました。それを日本列島で行われると、日本の文化や伝統、さらには産業が継承されないと考えたのでしょう。

政権が仮に倒れても、一つの政体として継続するには、どのようなシステムが有効なのか。考えた末の「権威と権力の分立」だったと思います。

(「故事・ことわざ・慣用句辞典オンライン」)

 象徴天皇制の「証拠」――幼帝の出現

国立歴史民俗博物館助教授を歴任された今谷明氏はその著書『象徴天皇の発見』(文春新書、1999年)の中で、象徴天皇制の「証拠」として幼帝の出現をあげています最初の幼帝は清和天皇です。そのことについて「名実共に、清和の即位は象徴天皇の登場をつげるものであった」(同上、92ページ)と書いています。幼帝は権力を行使出来ませんから、「権威者」そのものであったということの、これ以上の証明はありません。

ちなみに、中国の清の最後の皇帝が2歳で即位した幼帝・溥儀です。「ラストエンペラー」という映画にもなりました。辛亥革命で清朝は倒れますが、溥儀は20世紀まで生き延び、一般人としてその生涯を終わります。そういった歴史の間の中での偶然による幼帝ではなく、ある意味必然、そしてその地位を最後まで全うしたのが日本の幼帝です。幼帝を仮に満10歳以下での即位と定義をして、それに該当する天皇は30人もいます。

つまり、権威者としての天皇の地位は、そういった歴史的な事実の積み重ねの中で確立をしていたのです。17歳で即位した明治天皇も同じです。


 「象徴天皇制」としての歴史を刻んできた

明治天皇についての教科書の記述が間違っています。教科書は天皇主権説と天皇機関説を紹介しています。2つの学説は、西洋近代法の影響を受けていますが、主権という言葉を明治憲法は使っていませんし、天皇機関説というのは、国家法人説の焼き直しです。天皇を国家の組織の中に位置付けようとしたものですが、天皇の地位は歴史的に国家の組織から超越したものと日本では考えられてきました。

「シラス(治ラス)・ウシハク(統ハク)」という言葉を使って説明されてきました言葉を変えれば「権威と権力の分離」であり、「象徴天皇制」ということです。途中に権力者として振舞おうとした時代もありましたが、基本的には「象徴天皇制」としての歴史を刻んできたのです。これからもその流れは変わらないと思います。

(「ことのはそだて」)

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