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「チームとしての学校」を考える / 地域の国公立学校を中心にした組織を作る――学校統廃合は直ちにやめるべし

「『チームとしての学校』という言い方を聞いたことがありますか?」

女性

「いえ、今初めて聞きました。何か学校対抗でスポーツ競技でもするのですか?」

「そうではなく(笑)、学校を地域の学校と捉えて、いじめや不登校などを含めて、保護者や地域の住民と協力して対処していこうということです」

女性

「なるほど、そういう意味のチームなんですね。キャプテンは誰ですか?」

「発案者の中教審は、校長と言っています」

女性

「ただ、公立の校長は異動がありますよね」

「校長だけでなく、教員も公立はすべて異動があります」

女性

「それじゃあ、学校が地域に定着できないじゃあないですか」

「まさに、おっしゃる通りで、この方針は2015年に出されたのですが、具体的に殆ど動いていないのも、そんなところにあるのではないかと思っています」

女性

「校長先生といっても、一人ひとり考え方のニュアンスは違います。学内を第一と考える方もいれば、出来るだけ親や地域住民と一緒にと考える人と、その比重もまちまちです」

「現行の制度を考えると、一番のリーダーを校長とすると中心軸がぶれてしまい結局上手くいかないと思っています」

女性

「どうすればいいですか?」

「中心軸にふさわしい人を選ぶか、新たな組織をつくるか、それとも既存の組織と繋ぎ合わせるかのどれかだと思います」

女性

「ここからが本論です ↓」

 「チームとしての学校」の法的根拠は改正教育基本法

2006年に教育基本法が改正され、その第13条に「学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする」という文言が入りました。家庭、地域住民という言葉は、1947年の教基法にはありませんでした。そういう意味では、画期的なことだと思いますが、この法律の趣旨が政策に生かされていません。

ただ、日本の場合は法律を作って、それで安心してしまうところがあります。きまりや規則を作って、それを掲示板に張り出した瞬間から世の中がその通りに動き出す訳ではないのですが、何故か、そのように考えている傾向が強いのです。「道徳科」の導入もそうです。それが行われるまでは大変な関心が払われましたが、今では教科書の内容も含めて余り関心が払われていません。変な安心感が漂っています。

これは多分、封建時代のDNAを受け継いでいるのではないかと思っています。封建の身分制社会、日本では1000年以上の歴史を刻んでいます。市中にお触書が貼られた瞬間に、人々はそれに従って行動し始めます。その時代を現代人は知らないはずですが、何かそういったDNAを受け継いでいるのではないかと思っています。

ただ、もう今は現代なので、方針や方向性を出したら、それが実際に動き出すような制度なり仕組みを作る必要があります。それをしないで、「全校の努力義務」として「通達」を各学校に送ったとしても、現場ではスルーされることになります。「努力義務」というのは、「努力しなくても構わないこと」と読み替えられるからです。

(「Tシャツトリニティ」)

 

 チームの中心である校長に人事異動があるという矛盾

この矛盾を矛盾として認識していないのが、中教審答申のおめでたいところです。サッカーのチームで考えてみます。「チーム一丸となってお互い協力して技術を高め合ってきた。更なる高みを目指して前進を続けるぞ」と監督。選手は気合を入れて「オーツ」と言った時に、「今年で監督交代なので、後はガンバレ」と言った瞬間にチームはガクッと気が抜けると思います。

チームの中心に座る人が変われば、組織は当然変わります。それは、国家や会社を見れば分かることです。学校も組織なので同じです。『チームとしての学校』のプランが現実の中で広がらないのは、発想が空想的だからです。多分、中心になって考えた人たちは現場の経験が殆どない人たちでしょう。

組織の需要にマッチした有効な政策プランであれば、何も言わなくても広がっていくものです。中教審という権威的な組織が立てたプランが広がらないのは、現実にかみ合っていない提言だからです。教育は極めて現実的な営為です。中教審の委員の中に現場を掌握している人材を入れることだと思います。

 大学を中心にした「チームとしての学校」の構想を

地域の中心的な教育事業を担う資格があるところは、国公立大学が良いのではないかと思います。都道府県に必ず1校はありますし、さらに独立行政法人となったので、それぞれの判断で動くことができるからです。

つまり、地域の教育プランを大学で決めていただき、そのプロジェクトチームを大学で結成します。そのメンバーをある程度固定化すれば中心軸は揺らぎません

教育委員会という意見が出そうですが、自治体の長の考えに左右されることになります。また、教育委員会のメンバーをどのように選ぶのかという問題も出てきます。現在は、首長の任命制となっていますので、必ずしも教育について識見や経験がある訳ではありません。地方によっては、名誉職のような扱いとなっているところもあります。

 「チームとしての学校」を言うならば、学校統廃合をやめるべし

「チームとしての学校」を提言したのは2015年ですが、2014年11月13日、日本経済新聞は「文部科学省は13日、全国の公立学校のうち2012年度に598、13年度に482の計1080校が廃校になった」と報じています。

文科省の調査(調査と情報 第640号 文教科学技術課 安田隆子氏)によりますと、1992(平成4)年から 2007(平成19)年までの15年間に、小学校は 3.212校、中学校は959校が廃校になったことが明らかになりました。「12-18」という1956年に策定した学校教育法施行規則がフランケンシュタインのように一人歩きしていたのです

どういうことか。「12-18」規準というのは、ベビーブーム期に作られたもので、マンモス学校を防ぐために作られたものです。ところが、これが何故か途中から学校統廃合基準になってしまったのです。

1学年3クラス平均であれば3×6(学年)=18で基準内ですが、児童が増えれば教育的に良くないので、学校を建てなければいけない。そういった指標として出されたものが、子供が減り始め70年代以降になると、統廃合の基準に「変身」してしまうのです。いつの間にか「12-18」が教育的に正しい規準となり、これに見合っていない学校は統廃合の対象となります。

財務省は少しでも支出を減らしたい、子供をまとめれば経費が浮きます。そのことしか考えていません。それプラス文科省の解釈変更が補強材料となります。この2つの省庁に抗する自治体も少しはあったのですが、殆どの自治体が何も考えずにお上の意向に従います

その結果、少子化が社会問題化している2002年度以降、毎年度の廃校数は400校を超える結果となります。本来は、こういったことを国会議員、政党の関係者が気付いて止めさせなければいけないのですが、マスコミも含めて誰も気付かなかったのです。ちなみに、マスコミは『産経』から『朝日』まで、要するに右から左まですべて学校統廃合に賛成したのです。

その際の理屈が、ある程度人数が揃わなければ教育的効果は得られないというものです。人間は複雑な生き物なので、そういった一つの公式に当てはまるような存在ではないのです。教育の現場を知らない人に限って、そういう「公式」を振りかざす傾向がありますが、エビデンスがとれている訳ではありません

少人数がだめならば、松下村塾はどのように説明するのか、ヨーロッパ諸国は少人数教育にシフトを移しているのをどのように説明するのでしょうか。子供を大人数の集団に入れても、孤独を感じる子もいるのです。現場を知らないと、錯覚を起こしてしまうものなのです。

(史蹟  松下村塾)

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