
「今日はカレル・ヴァン・ウォルフレン(1941~)が書いた『日本/権力構造の謎』上、下(早川書房、1994)を話題にしようと思っています」

「そのカレル・ヴァン……という方は、どういう方ですか?」

「オランダ生まれのジャーナリストで1962年に来日して、日本で約30年にわたって特派員として活動しています」

「現在も、ご存命ですか?」

「亡くなったという報は入っていません。2020年の時点での肩書は、オランダのアムステルダム大学の名誉教授です」

「出版当時は話題になったそうですね?」

「上下巻合わせて1,000ページを超える大著ですが、出版されて8か月で3刷、15年目に9刷です」

「厚い本の割には、長年にわたって読まれてきたのですね。その理由は、何ですか?」

「とにかく核心部分をズバッと突く書き方をしています。そして、日本の歴史をよく調べています。そんなこともあり、書いてあることが説得性を持っています」

「最終的に、「権力構造の謎」についての疑問は解けたのですか?」

「日本という国は、確かに彼が言うように、一番肝心の権力の部分が曖昧模糊としています。官僚、政党人の一部、財界で綱引きをしながら行使をしているような状況です。彼はそれを〈システム〉という言葉で説明しています」

「その辺りは、本論で話題にして下さい。ここからが本論です ↓表紙写真は『日本記者クラブでのカレルです/YouTube』」
「文化革命」としての明治維新
彼、すなわちカレル・ヴァン・ウォルフレンが見ていた日本は、1980年代の日本です。1979年には『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が出版されており、日本はまさに「黄金期」の時代に見えたのかもしれません。だからこそ、彼は次のような疑問を抱いたのだと思います――「これまでの歴史では、貿易や産業が栄えて経済的にめざましく発展した国では芸術も栄えたものだが、今の日本の場合、そのような様子もまだ見られない。偉大な音楽や文学、……すなわち精神文化を高める香気が今日の日本から活発に立ちのぼっているとは言えない」(『日本/権力構造の謎 上』)。
このことに対して、書の中で説明している箇所は、私が読んだ限りではありませんでした。そこで、あえて彼に代わって答えてみたいと思います。
現在の政権構造は、明治維新の延長線上にありますが、この政権は、日本的文化を生み出してきた律令体制を否定したことで成立しています。そして、権力を奪取した時に、それまでの時代が築いてきた文化的遺産を破壊する、いわば「文化革命」を断行したのです。「城郭取壊令」が出され、全国の300の藩が有した城が取壊しの対象となりました。名城と言われた姫路城や熊本城もその対象でしたが、地元の篤志家や自治体がお金を出したり、懇願したりということで残ったものです。藩の数だけ城があったと思われますが、結局、193の城が破壊されたのです。
さらに廃仏毀釈という、仏教排斥運動が起こります。江戸時代までは、日本の土着の神道と外来の仏教が結びついた「神仏習合」が一般的でした。しかし、明治新政府は天皇中心の近代国家を作るため、神社から仏教的要素を排除して神道を国の中心に据える方針をとりました(国家神道)。この「神仏分離令」が発令されたことをきっかけに、過激化した民衆や神職らが仏教施設を襲撃する運動へと発展したのです。
平安時代後期の古刹で「大和の日光」と呼ばれた内山永久寺、諏訪大社の神宮寺の五重塔がこの騒ぎの中で破壊されています。薩摩藩内にあった1616の寺はすべて壊され、高知藩では751の寺が211に減少したのです。さらに、雪舟や狩野元信の絵が二束三文で売りに出されるような事態が起きています。
日本的精神文化の土壌そのものを破壊した政権が、敗戦をはさんで現在まで延命しています。「精神文化を高める香気」が日本社会から立ちのぼらなくなったとしても、不思議ではないのです。

(「週末はじめました」)
責任者なき国家 ― 帝国憲法の構造的欠陥
「究極的な政策決定権をもつ最高機関が存在しない」(『日本/権力構造の謎 上』)――「アメリカの元大統領ハリー・トルーマンがよくいっていた『最終的な決断はここでする』という責任の所在がないのである。日本では、最終責任をめぐって、どうどうめぐりが続けられるだけなのである」(同書)。要するに、誰も決断できないまま、時間だけが過ぎ去っていくというのが、日本の政治の特徴です。
実際に、アメリカのトランプ大統領が示した方針は、すぐに実行に向けて動き始めますが、日本の高市総理が言ったことは中々実現しません。食料品の消費税0%、しかも期限付き実施というささやかな公約ですら見通しが立たなくなってきています。カレルも「日本の首相の権力は、欧米やアジアのどの政府の首長のものよりも弱い」(同書)と述べています。何故でしょうか。これは明治以来の政治構造に根差した問題であり、これを制度的に定めたのが大日本帝国憲法なのです。
憲法で最も重要なことは、国の代表者と責任者を決めることです。帝国憲法を一読すると、天皇が代表者であり、責任者でもあるかのように思いますが、天皇は西洋の王とは違って権力そのものを行使する存在ではありません。それは歴史を見れば明らかです。だから誰が責任者なのかを明記する必要があります。ところが、帝国憲法を見ても、内閣総理大臣や内閣の言葉もありませんし、もちろんそれらについての規定もありません。第四章が「国務大臣及枢密院」となっていて、関係条文がそもそも2つしかありません――「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ……」(55条)、「枢密顧問ハ……重要ノ国務ヲ審議ス」(56条)。しかも、枢密院で内閣総理大臣や国務大臣のメンバーを決めるのですが、どのような組織なのかも書かれていません。誰が責任を負うのかを曖昧にしたまま、制度だけが存在していたのです。意図的にこのような憲法を作成したのだと思いますが、このことが日本に大変な厄災をもたらすことになります。

(「日本の古本屋」)
満州事変が暴いた「無責任体制」の本質
無責任体制を容認した憲法が制定され、徐々にそれが定着し、国家運営そのものを歪めていきます。1931年に関東軍の「暴走」により満州事変が起きるのですが、これはその厄災の一つでしょう。
当時、万里の長城が渤海に達した地点を「山海関」と呼び、それより東の地域を関東と言っていました。要するに、満州一帯を指す言葉でした。そして、その地域を担当した日本軍を関東軍と言ったのです。
その関東軍の作戦参謀だった石原莞爾(かんじ)は「いずれ日本とアメリカの世界最終戦争が起き、彼らに対抗するためには資源・食料の供給基地である満州を完全に統治する必要がある」という勝手な理屈の下、軍事進攻を進め、満州を制圧します。事実上の戦争であり、人によっては「15年戦争」と呼んでいます。これを満州事変と名付けたのは、「(パリ)不戦条約」を1928年に調印しており、建前上「戦争」はできず、あくまでも地域紛争のようなものということで「事変」という言葉を使ったのです。
これに対し、時の若槻礼次郎内閣は「不拡大方針」を閣議決定します。しかし、これが完全に無視されます。さらに、朝鮮軍の林銑十郎司令官は独断で部隊を動かして満州へ越境させたのです。無許可の進軍なので、本来は軍法会議の対象だと思います。ところが、若槻内閣はこの出兵を容認してしまいます。要するに、政府が軍部をコントロールできない国家であることを、自ら露呈してしまったのです。
帝国憲法には陸海軍についての規定がありますが、内閣総理大臣や内閣については何も規定がありません。規定の上で曖昧な組織が、憲法が認めた組織を指示することは立憲主義の観点から問題があります。そして、その責任者不在の構造がかたちを変えながら、現在の日本の政治に深く影響を与え続けているのです。

(満鉄爆破事件を調べるリットン調査団/「NHK」)
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