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 靖国神社と侵略戦争は無関係 / 国の指導者が英霊に頭を下げるのは当たり前

女性

「昨日8月15日は、終戦記念日でしたが、靖国神社には行かれたのですか?」

「いや、昨日は行っていません」

女性

「確か、遺族の方が祀られているとおっしゃっていましたよね」

「私の叔父ですね。今月の30日に永代神楽祭がありますので、そこで挨拶しようと思っています」

女性

「どこで亡くなられたのですか?」

「ノモンハンですね。前に、テレビでノモンハン事件の舞台ということで放映していましたが、あんな奥地まで行って戦争したんだなって、半分あきれましたね」

女性

「まだ、お若かったのでしょ」

「20歳そこそこですからね。何が何だか分からないまま召集されて、戦争に駆り出されたのです。昭和14年です。終戦の6年前ですね。大きな百姓家の本家の跡取り息子だったので、親はショックでしばらく寝込んだそうです」

女性

「当時は、長男、次男、関係ないのですね」

「そうですね、そういう配慮というか区別はなかったと思いますね」

女性

「ノモンハンというのは大体どの辺りなのですか」

「ノモンハンは、現在はモンゴル領だと思います。事件は関東軍とソ連・モンゴル軍が戦った国境紛争事件です。向こう側の物量作戦に壊滅的な打撃を受けたと言われています。死傷者数約2万人という記録が残っています」

女性

「靖国神社への政府関係者の参拝がいつも話題になりますが、いかがお考えですか?」

「普段あなたといろいろ話をしているので、もう聞かなくても分かるでしょ」

女性

「当然、するべきだということですか」

「国を代表して、戦争で犠牲になった英霊に対して参拝するのは国として、人間として当たり前のことだと思いますけどね。そういうことを、まずきちんと行う。侵略戦争云々というのは、それはまた別の次元の話です」

女性

「ここからが本論です ↓」

 国のため命を捧げた人たちを祀るために靖国神社を創建する

靖国神社の前身である東京招魂社(しょうこんしゃ)は、大村益次郎の発案のもと明治天皇の命により、戊辰戦争の戦死者を祀るために1869(明治2)年に創建されています。戊辰戦争というのは、新政府軍と旧幕府軍が京都、会津、函館などを舞台に約1年半にわたって戦いを繰り広げた戦争のことを言います。

戊辰戦争の犠牲者は全部で8420人という記録が残っています。ちなみに、一番犠牲者が多かったのは白虎隊の悲劇で知られている会津藩で、2557人です。地元では白河戦争と呼ばれていますが、市内には戦死者を敵味方を分け隔てることなく弔うための慰霊碑がいくつか建てられています。

実は、このように死ねば誰もが仏様(神様)なので、敵も味方も区別しないというのが、日本の死者に対する考え方であり文化なのです。これは、相手が外国の兵隊でも同じです。13世紀の後半に元寇と言われ、元の大軍が日本を襲来したことがありました(文永、弘安の役)。弘安の役の時は、14万の大軍が押し寄せてきましたが、激しい暴風雨もあって犠牲者が敵方に多く出ました。鎌倉幕府の執権北条時宗は、戦没者の菩提を弔うためということで、文永の役の後、1278年から円覚寺の建立を始めています。その後、「弘安の役」も勃発したため、その役での戦没者の慰霊も円覚寺の役目となりました。円覚寺では元寇で戦死した日本の武士と元軍(モンゴル・高麗等)の戦士が、分け隔てなく供養されています

敗戦となったため、戦地の各地で軍事法廷が開かれ、中には戦争犯罪人として処罰された方もいます。その度合に応じてA級~C級までランクが付けられました。中には、A級戦争犯罪人(A級戦犯)ということで、死刑となった人もいます。ただ、それはあくまでも連合国側の規準であって、亡くなられた場合は、同じ日本人の仲間として靖国にともに祀るということだと思います。そこに政治的思惑など、何ら入りようがありませんし、入れてはいけないと思います。

 

 靖国神社参拝を政治問題化したのが『朝日』

東京招魂社が靖国神社と名称が変わったのは、1879(明治12)年のことです。名称変更の理由は、「招魂」というのは一時的なことなのに、「社」は恒久施設。そこに矛盾があるので改称したということです。

呼び名のついでに言いますと、当初祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていました。日露戦争後に「英霊」と称されるようになったとのことです。ただ、名称が変更になった後でもしばらくは「招魂社」が庶民に親しまれていたようです。

何故、そういうことが分かるのか。1905年に夏目漱石が『吾輩は猫である』を発表しています。その中に、幼い3人姉妹の中の末娘のとん子が突然「お嫁に行きたい」と言い出す場面があります。どこへという問いかけに対して、「招魂社」という答えが返ってきます。それを聞いた次女のすん子が姉に向かって、私も招魂社が好きなので、一緒にお嫁に行きましょうと誘う場面があります。

どういうことか、と言いますと、当時は靖国神社界隈は大変ハイセンスで旅行者に人気のスポットだったようです。お嫁に行けば、絶えずその界隈の雰囲気を味わえるという幼な子の発想だったのです。漱石といえども、まさかそこが後の時代に参拝をめぐって政治問題になるとは夢にも思っていなかったでしょう

日本の新聞によるデマや誤報が中国の攻撃材料に利用される状況」(『NEWSポストセブン』SAPIO2015.9月号/八木秀次麗澤大学教授)によりますと、状況が大きく変わったのは、中曽根康弘・首相が公人としての靖国参拝を明言した1985年だったとのことです。この時、朝日新聞は再び「反靖国」の一大キャンペーンを始めます――「靖国神社は戦前、戦中を通じて国家神道のかなめに位置していた。(略)軍国主義日本のシンボルだったことも見逃すことのできない歴史的事実である」(『朝日』1985年8月4日付)

それでも中国政府は、終戦記念日に中曽根首相が靖国を参拝しても目立った反応をしませんでした。畳みかけるように8月末には社会党訪中団が北京に飛び、「中曽根内閣は軍事大国をめざしている」と「告げ口外交」に務めます。野党と反日マスコミの媚中路線は、この頃に種子が蒔かれます。

朝日新聞と左翼政党の「ご注進」に釣られた中国の要人やメディアは、ここから靖国参拝批判を開始します。政治的効果があると判断したのでしょう

ただ、批判されても、今の中国みたいに「内政干渉やめろ」と一言言えば、当時の経済力や力関係を見れば、あっという間に終わったでしょう。当時の中国は、それ以上何も言えなかったと思います

気弱というか、外交下手というか、言い負かされてしまい、中曽根首相は同年秋の例大祭での靖国参拝を断念せざるを得なくなります。断念をするので、相手は効果があったと思い、当然勢い付きます。もともと尊大な国なのに、その尊大さに自信が加わります。今の覇権中国を育てたのは、日本だと思います。そして、少し置いてアメリカです。スポーツと同じです。勝てる時にきちんと勝っておかないので、後になって何をやっても勝てなくなるのです。

そして、一度始めたことは、何か特別な理由がない限り、貫き通すのが政治家の務めなのです。政治の世界では、勝つか負けるか、上か下かです。勝ったと思えば、何か要求します。下だと思えば、継続して要求してきます。特に中国は、中華思想の国です。このままでは、永久に言われ続けます。

どこかで、この悪しき連鎖を切るようにして欲しいと思います

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