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「歴史総合」の導入で日本の通史を学ぶ機会が失われてしまう危機的状況。

(この文章は3/9日に書いたものです)

この記事の著者
中高一貫校で社会科の教師として37年間勤務する傍ら執筆活動にも力を入れる。
著書多数。
「一人ひとりに合った教育の創設を追究したいと思っています」
詳しくはトップページプロフィールより。
2022年から「歴史総合」という科目が導入される予定ですが、ご存じですか?
女性
ええ、前に小耳にはさんだ程度ですけど……。総合の意味がいまいち、よく分からないのですが……。
日本史と世界史の総合ということですが、近現代史を扱う予定だそうです。
女性
近現代史「だけ」ですか、それとも近現代史「中心」ですか?
近現代史「だけ」ですね。
女性
そうすると、何か問題がありますか?
実は、中学の歴史がすでに歴史総合的な内容になっていて、高校に「歴史総合」が導入されると、日本の通史を学ぶ機会がなくなります。近現代史の学習が不充分ということらしいのですが、政治経済や現代社会でその辺りは学習できているのです
女性
「歴史総合」を導入する理由は、何ですか?
流行りの「グローバル化」です。
女性
もう、グローバル化の時代ではないという主張も出ていますよね。
今、ちょうど潮目にあると思っています。今回のコロナ騒ぎを境に時代の流れがポピュリズム(自国中心主義)に向かう可能性が高いと思っています。ただ、歴史学習はそういった時代の流れとは関係なく、日本の歴史の流れ(通史)をまず学習する必要があると思います。
女性
通史で全体像をおさえることが大事ですよね。
文科省はしきりに「世界の歴史を背景に、(日本の)各時代の特色を…」(中学校学習指導要領社会科)と言いますが、言葉としては整合性があるかもしれませんが、実際には無理筋だと思っています
女性
それは、どういうことですか?
簡単に言えば、大陸と日本は、言語、習俗、習慣、宗教といった文化や価値観が違うので、国家観も違います。つくってきた歴史が余りにも違うので、一緒に並べて論じることはできないと思います。その違いは、狩猟民族と農耕民族の違いから派生したものだと思っています
女性
お互い違うものを並べることにより、その特徴が掴みやすいということもあるのではないでしょうか。
その違いを明らかにするためには、まず教科書の記述の仕方が難しいし、教える教員がそのことを充分理解している必要があります。現場の高校の教員は、日本史あるいは世界史の専門として授業を担当してきていますので、両方の視点からバランスよく教えるのは至難の業だと思っています。
女性
世界史と日本史、得手不得手がありますからね。
そんなことより、「歴史総合」の導入は、日本の通史を学ばせないための便法ではないかと思っているのです。
女性
その意図するところは何ですか?
アイデンティティを消失させ、贖罪意識を植え付けたいのではないかと思います。
女性
考え過ぎだと思いますよ。
用心に越したことはないと思います。




 聖徳太子の苦悩と危機感は憲法十七条の「和」の1字に表れている

聖徳太子の代わりに厩戸(うまやど)皇子という名前を使ったり、彼の事績を過少に評価したり、挙句の果てには「不在論」を持ち出すなど、日本の古代史におけるキーマンの聖徳太子は、常に狙われてきました。今回の検定においても、聖徳太子に関する記述にクレームがついています。(詳しくは「教科書検定を斬る」参照/『正論』2020.4月号)

改めて、彼の業績についてレポートしたいと思います。

「明確な国家意識をもっていた」(『日本の歴史①古代篇』)というのが故渡部昇一氏の聖徳太子評です。彼が生きた時代は、現代と状況が似ているかもしれません。

 大陸には統一王朝の隋(581~618)が成立をし、朝鮮半島では、日本の友好国の百済が高句麗、新羅と対立をしている状況です。隋は中華思想を根拠に、朝貢外交を押し進めようとします。それに対して、太子は対等外交の途を切り拓こうとします。小野妹子に持たせた国書には「東の天皇、敬って西の皇帝…」(『日本書紀』)とあり、皇帝の煬帝が激怒したと言われています。

教科書には、このあたりの太子の意図やなぜ激怒したのかが書かれていませんが、この手紙は2つのことを狙っていたと思います。1つは、大国隋と対等となれば、半島の国々に対して優位なポジションを取ることができるのではないか、そして2つ目は、「天皇」と「皇帝」が対等であることを隋が認めれば、それを国内統治に利用できるであろうと考えたのでしょう

 国内も太子の胸を痛めることの連続でした。有力豪族のバランスの上に成り立っていた政権ですが、物部氏が蘇我氏に滅ぼされ(丁未(ていび)の乱/587年)、その蘇我氏が皇室を脅かすほどの勢いを持つようになり、その延長線上で崇峻天皇暗殺事件(592年)が起きます。しかし、単純に蘇我氏討伐という訳にもいきません。聖徳太子と蘇我氏は姻戚関係にあったからです。

 太子の苦悩と危機感は憲法十七条の「和」の1字に表れています。きまりというのは、その内容を犯した先行事実があるはずです。「ここにゴミを捨てるな」というきまりがあるということは、ゴミを捨てた誰かが以前にいるということです。これを「逆読み」と言いますが、憲法17条を「逆読み」します。仕事の手抜き(7条、8条)、勝手に税金をとったり人を罰したり(5条、11条、12条)、出世をする人を妬んだり(14条)、民を勝手に働かせたり(16条)など、かなり乱れた状況であったことが分かります。

そういった危機の時は、人材を育成するのが重要と考えて導入したのが冠位12階の制です。身分ではなく、とにかく「能力」が高い人材が欲しかったのでしょう。そして、どのような「能力」の者が欲しかったのかは、この中身を分析すると分かります。   儒教の教えの中に四徳と五常(仁義礼智信)という教えがあり、それを冠位の名称に使っているのですが、「徳」を入れ、「礼」と「信」を上に上げて順番を変えています。ここも逆読みをしますと、礼節をわきまえ、人に信用されるような人格者を求めていたことが分かります。事務処理能力が高くても、自分勝手な人間では、国家の危機的状況の時は使えないという判断がそこにはあります。

日本が差し迫った国内外の危機に遭遇して、太子が考えたことは、国としての中心軸を定めることでした。国の中心軸に天皇、各個人の中心軸に仏教を定め、民に対して「和」を呼びかけて1つにまとまることを説いたのです。今でいうところの「ワンチーム」です。




 憲法十七条は、日本で最初の成文憲法

 太子の定めた憲法十七条は、まぎれもなく日本で最初の成文憲法です。ところが、これについて日本の憲法学会は殆ど無視しています。評価すらしない学者が多い中で、憲法学者の渋谷秀樹氏が意見を述べていますので、まずそれを紹介します。

「内容として、一般の人々の権利や自由の保障とか、権力の行使を抑制するための権力分立という発想はまったくありません。したがって、聖徳太子の十七条憲法は、現在一般的に使われている憲法と同じもの、つまり立憲主義的憲法、真の意味での憲法であると言うことはできないのです」(『憲法への招待』岩波新書.2014年)というものです。

まず、「権利や自由」、「権力分立」、「立憲主義」という概念は18世紀以降に西欧で確立した概念です。憲法十七条は7世紀です。時代的に無理な注文です

先に、世界史と日本史は、文化や価値観、国家観が違うという話をしました。渋谷氏は日本の憲法を西洋の価値観で評価しようとしているのです。そして、そこには西欧コンプレックスが見え隠れしています。

そもそも、権利や自由、権力分立、立憲主義という概念は、有史以来絶えず戦争、紛争、革命を繰り返し、国境線をしばしば変更してきた彼らヨーロッパ人が、権力者の横暴から身を守るために考え出した概念であり「武器」です。
日本では、天皇が権力者として民衆に牙をむいた歴史がありません。そのような歴史がなかったので、法概念が生まれなかっただけです。
だからホッブズは「権力のないところに、法はない。法のないところに、不正義はない」(『リヴァイアサン』)と言ったのです。法の概念やきまりが多くあるということは、それだけ社会が乱れていたということであり、誇ることではないのです。

 第一条には「上和(かみやわら)ぎ下睦びて、事を論(あげつら)うに諾(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず」とあります。上の者も下の者も、お互い親睦の気持ちをもって話し合いをすれば、自然に上手く事は運ぶ、と言っています「共にこれ凡夫」(第十条)と、共にという言葉を使って、上の身分も下の身分も、同じ共同体に生きる人間として国家を考えていることが分かります

「地縁による団体が『ヤケ』(宅・家)であり、その中で大規模なものが『オオヤケ』(大宅)」(尾藤正英『日本文化の歴史』)となり、これが後に公となったのでしょう。「オオヤケ」というのは、地域共同体であり、それが「国家の規模にまで拡大されたことにより、天皇の朝廷が『公』とよばれ、さらにそれは古代ばかりではなく、中世以降の国家にも継承される」(尾藤 前掲書)こととなります。このように、日本独特の官民一体の国家観が形成されていったのです

このような歴史が分からないと、後の大化の改新の時の公地公民の制、さらには時代が下って大政奉還、廃藩置県などが何故殆ど抵抗なく行われたのかという理由が分からないと思います

 検定教科書の記述の紹介

この辺りについて、山川出版の『詳説 日本史』(高校教科書)はどう書いているのか、紹介します。

「女帝の推古天皇が新たに即位し、国際的緊張のもとで蘇我馬子や推古天皇の甥の厩戸王(聖徳太子)らが協力して国家組織の形成を進めた。冠位十二階、翌604年には憲法十七条が定められた。冠位十二階は個人に対し冠位をあたえることで、それまでの氏族単位の王権組織を再編成しようとしたもので、憲法十七条も豪族たちに国家の官僚としての自覚を求めるとともに、仏教を新しい政治理念として重んずるものであった。こうして王権のもとに中央行政機構・地方組織の編成が進められた。中国との外交も再開され、607年には遣隋使として小野妹子が中国にわたった。隋への国書は倭の五王時代とは異なり、中国皇帝に臣属しない形式をとり、煬帝から無礼とされた」。

この日本史の記述の中の「王権」は、誤解を招く書き方をしています。中央集権国家によって、危機を乗り切ろうとしたように書いてあります。冠位十二階と憲法十七条が自然に定められたような書き方がなされています。外交についても「無礼」と一言だけなので、どういう意味をもっていたのかが全く分かりません。

検定教科書でこの程度です。検定制度とは一体何なのかと思っています。はっきり言っていらないと思います。

地方の教育委員会の責任において選定し、後は競争原理に任せれば劣悪な教科書や分かりにくい教科書は自然に淘汰されますし、教科書選定を巡る利権がらみの不正事件も根絶されるでしょう

読んでいただいてありがとうございました




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