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日本の学校教育で足りないもの(1) ―— 金銭教育 / お金との付き合い方を親が教える時代

「教育は万能とは思っていないですよね」

女性

「そういうふうに聞かれてしまうと、「はい」と答えてしまいますが、実際には、かなり学校に頼り切っています」

「頼っても良いのですが、公教育とて万能ではありません。弱点を知った上で、それを家庭がフォローできれば、それはそれで良いと思います」

女性

「どんな弱点が、あるのでしょうか?」

「というか、普通に子どもを小学校に預けておられる方がどうお考えなのか、それを聞きたいと思います。普段、感じられていることについて言ってみて下さい」

女性

「欲を言えばキリがないと思いますが、ただ、担任の当たりはずれが大きいので、それを防ぐために2人担任制とか、そういうことを考えて欲しいと思っています」

「それが出来たら良いなと思いますが、予算的に無理でしょうね」

女性

「あっさり、断られてしまいました」

「人的配置以外の問題については、いかがでしょうか?」

女性

「昨年も言いましたけど、休校にされたので我が家は大変だったのです。休校はとにかく、最後の最後にして欲しいということと、デジタル教育は家庭でのフォローが大変です」

「やめて欲しいということですか?」

女性

「教室の授業が出来ない場合は仕方がないと思いますが、なるべく対面でやっていただけると助かるというのが親としての感想ですね」

「学校は塾ではありませんのでね、端末機ですべてが伝わる訳ではありません」

女性

「ただ、何となく端末機を配って、後は授業配信さえすれば良いみたいな感覚で発言している人もいますが、小学生は友達と会って、話をして、何気ない会話を先生とするということが大事なのだと思います」

「私もそう思います。というか、人間の成長にとって、そちらの方が大事な場合が多くあると思います」

女性

「ここからが本論です ↓」

 

 日本の学校教育で足りないものは何か

あり過ぎて短い文章で収まりませんので、何回かに分けて論じていきたいと思いますが、教育課程に関わることで言いますと、道徳教育、金融教育、歴史教育、弁論教育(プレゼンテーション)、健康教育、以上5つです。これらの視点が抜け落ちているか、もしくは歪んでいます。歪んでいるものは、道徳教育と歴史教育です。後は、殆ど抜け落ちています。その教育内容に入る前に、簡単に教育行政について触れておきたいと思います。

 文科省という教育行政組織をどうするかを考える必要あり

文科省の前身の文部省は1871年に設立をされています。日本の教育行政を専ら担ってきたのですが、その組織的使命は完全に終わったと見ています。どういうことかというと、もう時代は中央集権的な教育行政を行う時代ではないということです。

実は、そのような内容の提言について、今からはるか75年前に「教育使節団報告書」という形でアメリカは日本に提出をしています。余り知られていないようなので、この場を借りて紹介したいと思います。その「報告書」は、連合国軍の最高司令官の要請を受けて来日した団員、総勢27名が終戦直後の1946年3月に来日して約1か月間滞在してまとめたものです。

「使節団の来訪は、少なからぬ自由主義的な日本の教育者たちに希望をかき立てた」(序論)とあり、教育行政については、「日本の学校制度は以前から批判を受けていた。というのは、制度全般にわたって多くの場合、指導的な地位が教育者としての職業的訓練を受けていない人々によって占められてきたからである」(全訳村井実『アメリカ教育使節団報告書』講談社学術文庫、1979年)という文面を読めば分かると思うのですが、それまでの文部省の中央集権的な教育行政を正面から批判をし、「地方分権的管理」を推奨しています。この提言から約75年が経っていますが、今でも単に国家公務員試験を合格しただけで、教育について何か訓練あるいは教育を受けた訳でもない人たちによって教育行政が担われています。

そういったことも含めて、現場の実情に合わせた、きめの細かい教育を遂行するためにも、教育行政に地方分権のシステムを本格的に導入することを考える時代となりました。デジタル庁が設立される運びとなりました。行政の細かいことに対応するために、そのような省庁を設立するのだと思います。当然、その成果は教育行政の分野においても発揮されるべきだと考えています。


 

  金銭教育について

先に上げた5つのうちの1つ、金銭教育について話をしたいと思います。金融分野の知識も含めて、お金とどう接して良いかという教育が、学校現場では殆どおざなりと言いますか、抜け落ちています。かつての時代は駄菓子屋が町中にあり、そこで子供たちは品物の買い方と同時にお金の支払い方を体験的に覚え、それと同時に、安い物、高い物はどういうものがあるかを知り、そういう中で金銭感覚を身に付けていったのです。だから、敢えて学校で教えなくても、日常生活の中で自然に身に付いていったのです

ところが現代は、駄菓子屋の代わりにコンビニとなったのですが、レジで小学生位の子供がお金を払うという雰囲気はありません。店側は嫌がりますし、周りは非常識な親という眼で見るでしょう。実地に体験する場面が極端に少なくなってしまったのです。

子供のためには、お小遣いをあげて、そのお小遣いで品物をどうやって買うのかを教えて上げる必要があります。そして、小学校の3年生位になったならば、1か月のお小遣いを月初めにまとめてあげて、お小遣い帳で管理させることをさせる必要があります。それが、後々大人になった時に生きてくるのです。

(「PIXTA」)

かつての時代は、子供貯金ということで学校で毎月お小遣いを貯めたのを持ってこさせて、銀行がそのわずかなお金を集めていたことがありますが、いろいろ問題があったようで今では行っていません家庭で親が子供の通帳を作って上げて、お金の貯め方を教えてあげる時代だと思います。


 

 お金とどの程度の距離を保つのか――永遠のテーマ

資本主義市場経済は、モノと人間の欲望がある限り永遠に続きます。社会主義の考え方は、お金と商品の流れを人工的に制御しようという考え方ですが、そんなことは出来ませんし、それを行おうとして破綻したのがソ連です。現在も、その考え方でチャレンジしている国がありますが、無駄な努力でしょう。需給が織りなす経済システムは形を変えながらも、永遠にその炎を燃やし続けることでしょう。それを資本主義というならば、資本主義はかたちを変えて、永遠に生き続けます。

問題なのは、その炎に焼かれないようにするためにはどうすれば良いかということです。システムを変えることではなく、それに合わせて自分自身の対応力と適応力を高める努力をすることが大事です。聖火リレーのように上手くコントロール出来ると、美しく光輝きます。扱い方を間違えると、自身を燃やす火となってしまうのです

どうすればいいのか。2つ方法があります先人のアドバイスから学ぶこと、そして、志を立てること、この2つです。先人のアドバイスとして最適なものは『自助論』が良いと思います。大人でもためになります。いくつか、紹介します――「節約という若き日の美徳は、年をとるにつれて貪欲という悪徳にかわってしまう」(『自助論』190ページ)。大人になると、どういう場面で金を上手く使うか、ここが一番考えどころということです。子供のうちは、ひたすら貯めることだけ考えていても許されると言いますか、褒められますが、大人の場合は時には悪口を言われ、馬鹿にされることもあるということです。

「富だけを目当てに金を貯め込むのは、心の狭いシミったれ連中のやること」(『自助論』190ページ)なので、高き志を掲げる必要があります。お金はあくまでも道具です。志を実現するために、お金を有効に使う。これが出来れば立派な大人ということで世間から評価されることになります。

折角ですので、『自助論』の言葉をもう少し紹介します。

「だいたいにおいて、金の力は過大評価されている。世に役立つ偉大な業績の多くは、金持ちや寄付金番付に名を連ねた人間ではなく、財政的には恵まれない人間によって成し遂げられてきた。偉大なくうそうか探検家、発明家、そして芸術家に大金持ちはいないし、むしろその多くは、世間的な境遇の面からいえば貧しい生活を強いられてきた。は、行動を刺激するよりむしろ行動を妨げる。多くの場合、富は幸運を呼ぶと同時に不幸の種ともなる」(『自助論』193ページ)


資産を多く持っていたが故に、若き妻に殺されてしまった方もいます。お金の使い方と活かし方、簡単なようで難しいと思います。

読んでいただき、ありがとうございました。

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