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現代は「白村江」に次ぐ第二の危機の時代 ――忍び寄る中国からの3つの攻撃 / 危機をバネに安定した体制を手に入れた過去に学ぶ時

「台風一過という言葉がありますが、普通はいい意味で使いますが、尖閣に台風一過、中国船が戻ってきたそうです」

女性

「しつこいですね。今はオリンピックなので、控えて欲しいと思いますけどね」

「共産主義者は目が点になるので、周りを見ないで欲しいものだけを見ようとします。獲物を狙うように、海警局の機関砲を搭載した4隻が接続水域を航行しています」

女性

「そういった状況がありつつも、日本国内には殆ど緊張感はありませんよね」

「まさかと思っている人が大半だと思います。状況的には、7世紀の白村江の戦いの後のような構えでいる必要があると思います」

女性

「白村江の戦い(663年)は、日本史の授業で習いました。唐・新羅連合軍と戦って、惨敗したのですよね」

「兵力約3万人をなくします。相当シヨックだったのでしょう。九州地方の守りを固めます。水城、山城を築き、都を近江に移します」

女性

「本土決戦になると思ったのですか?」

「その辺りはどうでしょうか? 備えあれば憂いなしと思ったのでしょう。ただ、その敗戦がその後の日本の政策に大きな影響を与えます」

女性

「その辺りは、高校の日本史の教科書を読んでも分かりませんでした」

「日本の教科書の多くは、ガイドブックになっていますし、大陸史観で書かれています。例えば、日本ではなく「倭」(山川日本史)という言い方を使っていますが、「倭」は腰の曲がった人を意味する漢字、つまり差別用語を使っています」

女性

「素直に「日本」と書けば良いと思いますけどね」

「その日本が、中国(唐)に対抗するために考えたのが防衛ですが、次に何を考えたと思いますか」

女性

「えっ、何でしょうか? 内を固めたのですか?」

「その通りですが、どう固めたのかが問題ですよね。それについては、本論で書きたいと思います ↓」

 「ガイドブック教科書」では、歴史から学ぶことができない

日本は一つの王朝が少なくとも約2000年続いている世界一古い国です。しかし、その歴史をそのまま学ぶことが出来る利点が、十分に生かされていません

中国は歴史上多くの王朝が勃興し、天下を取った国が前の王朝の関係者を皆殺しにして、史実を書き換えてしまったり、消したりしてきました。

つい先日、習近平主席が共産党100周年の演説をしましたが、本当にここ100年だけの歴史を彼は語りました。それまでの歴史を踏まえて今があるのではなく、今までの歴史を負と捉え、それを克服して共産党主導により中国は飛躍したという論法です。

彼らの発想は、都合の悪い歴史は書き換えれば良いというものです。大陸や半島の人たちは平気で過去の歴史を書き換えますが、そうなると、歴史から学ぶことができにくくなります。日本の場合は、その点同一王朝で連綿と歴史が続いてきた国ですので、別に書き換える必要もありませんし、様々な記録、遺跡や遺構、建築物が遺っていて、それがそのまま、我々にとっての生きた教科書になります。しかしながら、ガイドブック的な書き方の教科書が多いため、そこから教訓を学びにくくなっているような現状があります。

(「ニッポンドットコム」)

 現代は「白村江」に次ぐ第二の危機の時代

「白村江」は実際に戦火を交えた戦いでした。現代の戦いは、目に見えない戦いです。尖閣周辺の接続水域の航行によるプレッシャーは目に見えますが、それ以外は真綿で首を絞めるように徐々に包囲網を縮めようという作戦です。見えない攻撃を見るようにすることが、対中国防衛にとって大事なこととなります。

どのようにして包囲網を縮めようとしているのでしょうか。1つは、共産主義によるイデオロギー攻撃です。2つ目は、経済的な包囲網の形成です。3つ目は、政治的、軍事的包囲網です

実は、これらの攻撃に対して防衛体制がとられていません。殆ど、無防備状態です。「白村江」の時は、軍事的防備を固め、内部組織の編成替えをして理論武装をしたのです。そのことが、その後の日本王朝の繁栄を築くことになります。

その辺りのことを、因果関係を含めてきちんと書いているのは自由社の『新しい歴史教科書』だけです。「敗戦を教訓にした律令国家」というコラム欄を設け、その中で「敗戦後、天智天皇は国家の危機を感じて中央集権化と律令の整備につとめました。天智・天武天皇は東アジアの興亡と敗戦の経験を教訓に国づくりを進めました」と説明しています

この教科書は、文科省の教科書検定で難くせを付けられて検定不合格になった教科書ですが、「白村江」の戦いに1ページを使い、その後の日本側の対応について3ページ、計4ページ割いていますし、「白村江」と天智・天武両天皇による内部改革という捉え方をしています。東京書籍や山川といった他の出版社は数行から1ページ程度です。山川の教科書は「白村江の戦いと政治改革」という項目をつくって、一応連動的に捉えてはいますが、自由社以外は天智天皇と天武天皇を個別に捉えています

天智天皇が律令政治の輪郭を書き、天武天皇がそれを仕上げて、理論的に解明したものを後世に遺すために『古事記』を編纂させたのです(「古事記に込められたメッセージ」2020.8.20付 ブログを参照して下さい)。そして対外的にも対内的にも必要ということで『日本書紀』が編纂されます。記紀の編纂は国家事業として行われます。

(「団塊世代の我楽多(がらくた)帳」)

 日本独特の「権威と権力の分離」による政治体制の誕生

国家体制をつくる場合、自己都合で勝手なものを作らないようにしなければなりません。建物と同じで建て方が理にかなっていなければ、すぐに崩れてしまうからです。では、その原理は何なのか、多分当時の為政者が最も頭を悩ませた問題だと思います。中国を手本にすれば良いのではと思うかもしれませんが、中国は様々な王朝が勃興しており、参考にならないと考えました。正しい原理が反映されている政治制度であれば、その王朝は長い歴史を刻むことができているはずだからです唐は大国ですが、618年に建国されたばかりです。その前は秦や隋といった王朝がありましたが滅んでいます。そういった王朝の政治制度は参考にはするが、手本にはできないと思ったのです。

山川の教科書は、唐をならって政治体制をつくったとしていますが、都市づくりは唐をならったのは確かですが、政治体制は日本独自の考え方で作り上げたものです。そもそも、皇帝は権力者ですが、天皇はそうではありません。どうして、そうしたのか。多分、中国の王朝の興亡史を調べたのでしょう。そして「権力を持つことは標的にされ、狙われる」という単純な原理を発見したのでしょう。天智、天武の時代までの天皇は権力者です。天武天皇は壬申の乱で権力争いを実際に行っています。そういった自身の経験と日本という国を存続させるために、天皇を権威者として君臨させる一方、他の者、あるいは他の機関に権力を与えて実際の政務を任せようという考えが浮かんできます。ここに、「権威と権力の分離」による政治体制の原案が作られることになります。

(「アメブロ」)

天皇の下に、太政官と神祇官が置かれます(二官八省)。天皇は権威者として振舞いながら神事を行う存在、実際の政治については太政官に権限を与えて委ねるという形を取ります。政治というのは、時には過ちを犯します。その場合でも、その責任は太政官が負うことになります。天皇は現実政治と関わっていないので、責任を免れることになります。ということば、この政治体制を存続さえしていければ王朝は代を継いで残ることになります。現代の言葉で言えば、象徴天皇の誕生です。象徴天皇は戦後から始まったと思っている人がいるかもしれませんが、奈良の時代から始まることになります。

 「日本の天皇のあり方は、諸外国の王制と比べてもきわめて特異」(今谷明 『象徴天皇の源流』(新人物往来社/2011年) 14ページ)、何が特異かと言えば「千年も以前から『不執政王』が伝統となっていたこと」(同上)と指摘します。この「不執政王」というのは、権力を振るわない権威者としての天皇ということです。

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