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明治維新期を振り返る(1) ―— ペリーは友好的であった / 教育水準が高かったため、開国に耐えることができた

  • 2023年11月7日
  • 2023年11月9日
  • 歴史
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「たまには、歴史の話題を。今日から明治維新について深めていきたいと思います」

女性

「歴史は好きな教科でしたから大丈夫ですよ。ただ、なぜ明治維新なんですか?」

「明治維新期に日本が西洋文明にどのように接し、どのように対処したのか、改めて見直す必要があると思っているからです」

女性

「そのこころは?」

「そこで大きな失敗をしたのではないかと最近思うようになったからです」

女性

「明治維新については、高校の歴史の先生が、すごく褒めていた印象があります」

「世界の奇跡と言われていますからね。評価をする人が8~9割位いると思います」

女性

「そうなんですね。先生はいかがですか?」

「上手くいった部分あり、失敗もありということで、総合得点は20点というのが私の評価です。ただ、私の見方は王政復古から見るのではなく、ペリー来航から見るべきだと思っています」

女性

「「たった四盃で夜も眠れず」黒船来航ですね。当時は大騒ぎだったようですね」

「そういう川柳が遺っている位ですからね。ただ、庶民は慌てても良いけど、幕府が慌ててしまったのです」

女性

「慌てるとロクなことがない」

「そうですね。そこから連続的にミスをします」

女性

「だからすぐにピッチャー交代になるのですね。ここからが本論です ↓」

 「凡人は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」

今の日本に必要なことは、明治維新期からの日本の歴史を、改めて見直すことだと思っています。なぜ、そのような作業が必要なのか。開国をして本格的に西洋の文物や価値観が大量に日本列島に流れ込むことになります。有史以来の経験だったと思います。

その緊急事態にどのように考え、どのように乗り切ろうと思ったのか。当時の日本社会の危機管理に対応する能力が分かりますし、当時の日本人の政治的力量もおよそ分かります。現在の日本の周辺は「波高し」のような状況になっています。歴史を紐解く中で、何らかの学びがあるのではないかと思います。

(「潜在意識と引き寄せの法則」)

 ペリーは友好的であった

アメリカのペリーは来航の時に、徳川将軍の土産としてアップルパイ、七面鳥以外にミニチュアの蒸気機関車、電信機、回転式拳銃といった文明の機器を持ってきています。

ただ、アメリカをはじめ西洋の情報については、当時の幕府は長崎の奉行所を通じて情報を得ていました。だから、それほど驚かなかったようです。ちなみに、ペリー提督の日本側通訳にあたったのがジョン万次郎です。下の銅像はジョン万次郎です。(帰国後、土佐藩で士分として取り立てられます)

この人は土佐の漁師でカツオ漁をしていて難破をし、無人島の鳥島に漂着したところをアメリカの捕鯨船に助けられ、そのままアメリカに渡ったという人です。向こうで航海士の免許を取り、お金を稼いで日本に戻ってきます。ペリー来航の2年前です。彼が通訳者として活躍します。ペリー提督の履歴を知っていたので、日本関係者は驚いたというエピソードもあります。

(「高知銀行」)

 教育水準が高かったため、開国に耐えることができた

ペリーの来航が攻撃的ではないと知った幕府は和親条約を結びます。そして各藩に1635年以来大型船の建造解禁の通達を出します。そこまでの対応は迅速でした。

「黒船を見た途端に黒船を造ったのは日本人だけだ」と言われています。その後、蒸気船を造った藩が三つあったのです。佐賀藩、薩摩藩、宇和島藩です。特に外国人の指導を受けた訳でもなく、蒸気で動くという原理を知り、幕府の造船に関する規制が緩和されたのを受けて、それら三藩は蒸気船を作ります。

どうしてそういうことが出来たのか。幕末期の各藩での教育です。寺子屋、私塾、藩校が全国各地にあり、江戸時代の識字率は70%位あったのではないかと言われています。大阪の堂島米市場では世界に先駆けて先物取引が実施されていましたし、日本の数学者の関孝和は微積分の計算を理解していました。かなり知的レベルが高かったようです。開国をして日本は自由貿易経済に巻き込まれていきますが、それに対応できるだけの力はあったのです。(この話は続く)

(「You Tube」)

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