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明治維新期を振り返る(2) ―— 転機となったのが日米修好通商条約の締結 / 明治維新は革命にあらず

  • 2023年11月9日
  • 2023年11月10日
  • 歴史
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女性

「明治維新期をいつからと考えていますか?」

「良い質問ですね。これは、明治維新をどう捉えるかということと絡んでくるのですが、見解が分かれています。私は、日米修好通商条約の年からと思っています」

女性

「昨日はぺリー来航とおっしゃっていましたよね」

「ペリー来航が序章です。翌年、和親条約を結びますが、日本社会は平穏でした」

女性

「1858年の修好通商条約を結んでから、いろんな動きが出て来るのですね?」

「そうですね、幕府側が勇み足をします」

女性

「朝廷の許可が出ないまま、条約を締結してしまったのでしょ。そのことを高校で習った時、何でそれがいけないことなのか、よく分からなかったのです」

「簡単に言えば、どこの国と外交関係を結ぶということは重要事項なので、天皇の許可が当然必要ということです」

女性

「ただ、実際の政務は幕府が実権を握って行っていたんですよね」

「そうですね。その幕府にハリスが強く迫ります。そのうち隣の清国がイギリス、フランスと天津条約を結びます。結んだというより、結ばされたということです。そういうこともあり、幕府は慌てます」

女性

「それで大老の井伊直弼が独断で条約を結んでしまうのですね」

「内容は、あなたもご承知の通り、関税自主権がなく、治外法権を認めるという不平等条約だったのです。当時の天皇は孝明天皇ですが、締結に付随して起きることを心配したそうです」

女性

「それは何ですか?」

「異文化が大量に入ってきて、日本のかたちが壊れるのではないかと思ったようです」

女性

「ここからが本論です ↓  表紙写真は「俳句で覚える歴史年表 – Seesaa」提供です」

 

 転機となったのが日米修好通商条約の締結

今の日本に必要なことは、明治維新期からの日本の歴史を改めて見直すことだということを昨日のブログで書きました。大政奉還が平和的に進められ、直ちに中央集権国家のもとで近代化に成功します。その甲斐あって日清戦争と日露戦争という近代戦争に勝ち、産業革命も成功させ近代文明国家の礎を築きました。

表面的には、大変上手くいったように思えます。しかし、健康に見えても、病魔が忍び込んでいる場合があります。病魔が忍び込んだのは、いつの時点として考えるかということです

日本という国は、古代の天武天皇の頃から、時の権力者と天皇が共同統治をしていた国柄です。天皇をシラス者(権威者)とし、時の権力者は実際に国土をウシハク(領ク)するという考えです。そのように、2人3脚で日本の統治をしていた態勢が崩れるきっかけとなってしまったのが、1858年の日米修好通商条約の締結です。ここから一気に幕府崩壊に向かって歴史が流れます。

(「レタスクラブ」)

 開国が国民経済に大きな影響を与える

通商条約というのは、自由に貿易取引をしましょうという約束です。今まで鎖国をしていた国が、当時の経済大国との自由貿易をいきなりスタートさせたのです。その割には、日本のパフォーマンスは素晴らしく、常に輸出が上回っているという状況だったのです。

日本の輸出品目は、生糸が全体の約8割という高い割合でした。その他、お茶、海産物と言ったものです。日本が輸入したものは、毛織物、綿織物、武器、艦船といった工業製品です。

アメリカから安価で質の良い織物製品が入って来るようになりましたので、日本の業者は打撃をうけます。そして物価が高騰します。宮本又郎氏の研究によりますと、その当時の物価上昇率は8.5%だったとのこと。国内では、開国に対して不満を持つ人たちが増え、それが攘夷運動に繋がっていきます。

その後、幕府と朝廷方との和解が成立し、公武合体が行われます。孝明天皇の妹、和宮が14代将軍家茂の妻として迎え入れられます。しかし、その後、その推進派であった孝明天皇が急死、家茂も同じ年に21歳の若さで死去して公武合体運動は事実上、頓挫します。幕府は政権を支える力が無くなったという判断から政権を朝廷に返上することを決めます。

(「チョイチョイ倶楽部」)

 明治維新は革命にあらず

 明治維新は革命なのかという問題があります。革命と考えるには無理があると思っています。革命の原語は「revolution」です。元の意味は、根本的な変革という意味です。

日本は権威者天皇と権力者が共同で統治してきた国です。権威者である天皇の地位は何も変わっていません。そして、権力は徳川幕府から天皇に戻され、その時点で表面的には移動しているのですが、帝国憲法によればそれを内閣の大臣に返しています。だから、本質的には何の移動もなかったということになります。

革命だとすると、革命の主体があるはずですか、それがはっきりしません。大政奉還の時の明治天皇の年齢は若干14歳なので、その天皇が自らの意志で権力を掌握したとは言えません。せいぜい、「国譲り」が行われたと言える位です。(この話続く)

(「紀伊國屋書店」)

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