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明治維新期をふり返る(3) ―— 祭政一致が日本のアイデンティティ / 地方分権が日本のかたち

  • 2023年11月11日
  • 歴史
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女性

「明治維新期というのは、黒船来航から西南戦争までと考えると教科書に書いてありましたけど……」

「いろんな考え方があって良いと思っています。ただ、それは、あくまでも現象面を見ての判断ですよね。現象を動かしている本質的なことを捉まえる必要があります」

女性

「黒船が西洋文明を持ち込み、西南戦争で武士の反乱が終わるので、それを近代と封建の境目とする考え方ですよね」

「私に言わせると、明治維新期は「神武創業の時代に還る」と掛け声はしたものの、真逆の政策を次々と打ち出した期間なのです」

女性

「真逆の一つが、日米修好通商条約ということですか?」

「真逆ではなく、どちらかと言うと掟破りですね。日本のアイデンティティは官民共治ですが、朝廷の許可を得ずにアメリカと条約を結んでしまいます。そこから混乱が広がります」

女性

「アメリカと条約を結んだことではなく、朝廷の許可を得なかったことを問題としているのですね」

「そして、藩閥政府は中央集権国家をつくりますよね。そういう国家を今まで日本は作ったことはありません」

女性

「そうなんですか! 古代に中央集権国家だったような気がするのですが……」

「私に言わせれば、都市伝説です。日本のように山あり谷あり半島有りの複雑な地形の国で中央集権国家をつくるのは、かなり大変です。そもそも、そのためには中国のように官僚を採用・養成をするための科挙のようなものが必要ですが、日本にはありません」

女性

「高等文官試験の導入は、明治からですものね」

「それは中国の科挙を真似たものですよね。中央集権国家と官僚の養成・試験は切り離せません。日本が高等文官試験、今の国家公務員上級試験を導入したのは明治時代です。ということは、中央集権国家の建設は明治からと考えて良いと思います」

女性

「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「歴人マガジン」提供です」

 明治維新—―プラス面とマイナス面の両方あり

明治維新ということで、素晴らしい成果を上げたと思うかもしれません。もちろん、プラスの面もありますが、手放しで評価せず、マイナス面も見て、総合的に判断する必要があります。

政権交代があって「五箇条の御誓文」(1868)が朝廷方から出されます。「神武創業」に戻ることが確認されますが、「日本のかたち」が分かっておらず、具体的に何をすれば良いのか分からなかったというのが実際だったと思います。そういう中で、見習った社会が西洋近代社会です。そこがつまずきの元となります。鹿鳴館政策がその象徴です。

旧幕府軍と新政府軍との内戦(戊辰戦争)の最後の局面の五稜郭戦争が終わったのが、1869年です。大政奉還があったとは言え、それに納得していない人たちもいて、国内が落ち着くのにある程度の年数が必要だったのです。会津戦争もありました。表面的にはスムースに政権移行しているように見えますが、かなりの混乱が見受けられます

 

 祭政一致が日本のアイデンティティ

先人は、日本の特異な地形ゆえに地方分権国家を選択したのですが、それを支える手段と考えたのが神社だったのです。

もともと日本はアニミズム(自然宗教)の国です。太陽そのものを神と考えています。山の神、海の神、森の神というように、自然そのものが神という考え方です。そして、祖先も死ねば長い期間をかけて自然に還りますので神様になります。その神様の代表を祀る場所が神社です。ここが地域の中心地となり、祭りの舞台となります。神社が地域の人たちにとって心の拠り所となります

そういった神社を総括的にまとめていた役所が神祇官でした。その神祇官と太政官の二官によって統治が行われていたのです。日本の統治の特徴は、権力と権威を分離して、時の権力者は太政官の大臣として処遇します。権力の発信基地が太政官で、天皇が皇祖神に対して様々な儀式を行うのが神祇官でした。天皇は神祇官で祭主として振舞う。2つで1セットでしたが、明治の時代になって神祇官が格下げされ、やがてなくします。

祭政一致の原則が、明治時代になって崩れていきます。1868年に神仏分離令が出て、廃仏毀釈運動が起きます。多くの寺や仏像が焼かれたり、破壊されたりしています。神社に対しても神社合祀令が出て、整理統合された神社もあるのです。

 

 地方分権が日本のアイデンティティ

地方分権国家を支える体制が、幕藩体制でした。ところが、1871年に廃藩置県を断行します。すべての藩は廃止され、旧大名の知藩事は失職状態となります。藩はすべて府県となります。各地の府県には、国から官僚が派遣されることになります。

1872(明治5)年に学制が発布されます。近代的な学校制度を文部省が中心となってつくります。江戸時代までは、藩に教育内容をすべて任せていましたが、明治政府は全国統一の公教育制度を導入します。方言ではなく、標準語で読み、書きが出来るように指導する必要性が高まる中で、中央集権的な教育行政が実施されたのです。

近代国家をつくるためには中央集権国家にしなければいけないと思い込んでいたようです。アメリカを見れば分かりますが、州に多くの権限を与えた地方分権国家です。教育も州独自の考えで行われています。日本のかたちが崩れていったのです。フォームを崩したスポーツ選手が試合に勝てなくなるように、勝てないどころか、コースを外れて当時の人たちが思いもしなかった野山を駆け巡り始めます。(明治維新については、今回が最後です。現代社会に関連するテーマでいつも通り週3回(火、木、土)のペースで配信します)

(「スマート選挙ブログ」)

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