
「食品減税法案を閣議決定しましたね」

「2027年4月から2年間限定で食料品の消費税率を8%から1%に引き下げるというものです。第一段階は突破できましたが、まだ道半ばです」

「衆議院は通るでしょうが、問題は参議院でしょうね。与党は過半数割れしていますからね。ただ、消費税を下げることに政党は反対しづらいのではないかと思っています」

「正面から反対とは言いにくいので、財源とか、本当に2年後に戻せるのかとか、様々なことを絡めながら論戦に臨むと思います」

「一主婦としては、食料品の消費税減税、ぜひお願いしたいと思っています。今、野菜や食料品が本当に高くなっていますからね」

「財源については、前回のブログで書きましたので、今回はサナエノミクス(高市内閣の経済政策)の経済的意義について述べたいと思います」

「本来は、新聞がそういったことを書くべきですよね」

「日本の新聞は大衆紙路線をとっていますので、現象面の報道しかしません」

「それはどうしてですか?」

「情報源が同じ記者クラブ(財務省や日銀)の公式発表であるため、出てくる記事はほとんど変わりません。結果として、社会事象の解説ではなく、「物価が上がって大変だ」「政府が〇〇兆円の対策を打った」という現象の表面をなぞるだけの記事が増えてしまうのです」

「だから経済分野になると、右の新聞も左の新聞も、見事に横並びになってしまうのですね」

「産経も朝日も「財源」論を言うのは、そのためです。ここからが本論です ↓ 表紙は「You Tube/たまきチヤンネル」です」
「消費税減税」のの背後にある経済学説の違い
財源の問題、さらには消費税減税の問題の背後には、経済学説をめぐる争いがあります。市場の自律的な調整機能を重視する考え方と、政府が積極的に経済に働きかけるべきだという考え方です。財務省の財政運営には、経済成長の促進とともに、財政規律や政府債務の持続可能性を重視する姿勢が見られます。財務省の財政運営には、経済成長の促進よりも、財政赤字の抑制や国の借金が増え続けることへの警戒を優先する傾向が見られます。
財務省筋が採用している学説は、古典派経済学の市場均衡理論です。学校の社会科の授業で、需要と供給の均衡によって市場価格が決まると習ったと思います。アダム・スミスはその働きを「(神の)見えざる手」と表現しました。個人が自己の利益を追求する行動が、意図せず社会全体の利益につながる場合があることを「見えざる手」という言葉で表現したのです。この考え方は、その後、市場の自律的な調整機能を重視する経済思想の発展に大きな影響を与えました。
古典派経済学の考えは、とにかく自由競争を拡大することを是とします。競争を阻害するような規制を撤廃し(規制緩和)、民間でできるものは民間に任せてしまう(民営化)という方針でした。そして、主流派経済学は、人々や企業の「インセンティブ(やる気)」を最も重視します。所得税を高めると働く意欲が減り、法人税を高くすると競争力が奪われてしまいます。そのため、所得税も法人税も低く抑えることが望ましいと考えるのです。こうした市場重視の考え方とともに、所得税や法人税に偏った税体系を見直し、消費に対して広く課税するという税制改革の発想が強まりました。1989年に導入された消費税も、そのような税体系の再編という流れの中に位置づけることができます。
古典派経済学の成長モデルでは、「貯蓄 = 投資の原資 = 将来の経済成長」と考えます。つまり、貯蓄が資本蓄積を支え、それが投資を通じて将来の生産力の拡大につながると考えます。しかし、貯蓄が増えれば自動的に投資が増えるわけではありません。企業に投資需要がなければ、資金が滞留することもあります。
古典派経済学は財政赤字を大変嫌います。「政府が余計な介入をして市場を歪めた結果(結果の歪み)」であると考えるからです。政府が財政赤字を出しているということは、税収(身の丈)以上の支出をして、無理に公共事業や社会保障を行っている状態を意味します。これは自由な市場競争ではなく、「政府による市場への不自然な介入」の証拠であると考えるのです。政府債務を「未来の世代にツケを回す不公平な行為」と考えるのです。

(「叡智」の三猿)
アベノミクスはなぜデフレ脱却を実現できなかったのか
アベノミクスがデフレ経済からの脱却という目的を掲げて採り入れた主要な経済思想は、主に「ケインズ経済学」や「マネタリズム(リフレ派の理論)」です。安倍内閣が掲げたアベノミクス3本の矢というのは、金融緩和政策、機動的な財政政策、そして民間投資の喚起です。簡単に言えば、経済の活性化のために、国を挙げて応援する体制をつくったのです。
なぜ、それが結果的に上手くいかなかったのでしょうか。大きな原因として言われているのが2014年(5%→8%)と2019年(8%→10%)の2回の消費税の値上げです。これによって国民の消費マインドが冷やされてしまったという指摘がなされています。ただ、消費税の値上げは、アベノミクスが目指す方向性とは逆行する施策です。それなのに、なぜ消費税値上げを実施したのでしょうか。
実は、安倍政権が誕生する前の2012年8月、当時の野田佳彦内閣(民主党)、自民党、公明党の間で「社会保障と税の一体改革に関する三党合意」が結ばれていたのです。これは「急速に進む少子高齢化の社会保障費を賄うため、消費税を10%まで引き上げる」という超党派の決定でした。すでに法律で定められていた増税路線を見直すには、新たな政治判断と法改正が必要でした。すでに決まっていた路線を完全に覆すことが困難だったのです。
安倍元首相自身はデフレ下での増税に非常に慎重(むしろ反対)でした。そのため、「消費税10%への引き上げ」を2度も延期するという決断を下しています(2014年と2016年に延期を発表)。最終的には2019年に10%への増税が実施されましたが、多くの経済学者や元参与から「この2度の増税による個人消費の冷え込みが、アベノミクスの効果(ケインズ政策の効果)を打ち消してしまい、完全なデフレ脱却を遅らせた最大の原因になった」と言われています。
アベノミクスが残した重要な教訓は、金融緩和によって企業が資金を調達しやすい環境をつくっても、それだけで設備投資や技術革新が進むわけではないということです。企業が将来の需要拡大を予測できなければ、金利が低くても投資には踏み切りません。資金の供給と投資需要は、別の問題なのです。

(「You Tube」)
サナエノミクスが問い直す政府の主導的役割
2度の増税があったにせよ、アベノミクスはなぜ、思った通りの経済効果が出なかったのでしょうか。金融緩和によって企業の資金調達環境は改善し、企業収益や雇用にも一定の成果が現れました。しかし、それが日本経済の潜在成長率を大きく引き上げるような設備投資や技術革新につながったとは言い難い状況でした。企業は収益を改善させたものの、将来の成長に向けた大胆な投資には必ずしも積極的ではなかったのです。
現代の高度な技術開発を伴う産業では、一つの事業を成立させるまでに巨額の資金と長い年月が必要になります。しかも、その投資が成功する保証はありません。民間企業だけにリスクを負わせていては、社会的に必要な技術開発であっても、投資が十分に進まないことがあります。ここに、現代の政府が果たすべき新たな役割があるのではないでしょうか。つまり、「現代の高度化した経済においては、政府や中央銀行が『マクロ的にお金の環境を整える(ケインズ・リフレ的政策)』だけでは、持続的な経済発展のエンジン(イノベーション)は駆動しない」という厳然たる事実でした。それを踏まえて、出てきたのがサナエノミクス(高市内閣の経済政策)です。
現代経済における政府の役割は、単なる「資金の供給源(環境整備)」ではなく、官民がリスクを共有して巨大産業を育てることや、イノベーションが起きやすい経済環境づくりへと、パラダイムシフトを起こすことだと言えます。サナエノミクスが掲げる「危機管理投資」と「成長投資」は、政府が将来必要となる産業分野を見定め、民間企業とともに長期的な投資に取り組もうとするものです。これは、単に金融緩和によって投資環境を整えるという発想から、政府が産業形成の過程にも積極的に関与するという発想への転換を意味します。もちろん、その政策が成功するかどうかは今後の成果によって判断されなければなりません。しかし、国家としてどのような産業基盤を築くのかという問題意識が、政策の中に明確に示されています。サナエノミクスには、そういった意味で哲学があります。
政治家が政策を提案すると、官僚がその政策の是非を判断する。財源の説明やその政策の有効性を求めること自体は、民主的な財政統制にとって必要です。ところがその政策が自分たちとは考え方が違うということだけで政策を退けようとするところがあります。それでは、主客転倒です。このような行政優位の構造は、明治以来の中央集権的な官僚制との歴史的な連続性という視点から検証する必要があります。政策を立案する政治と、それを専門的な知識によって支える行政との関係が、なぜ逆転してしまうのか。これは日本の統治機構そのものに関わる根が深い問題なのです。
経済学説は、経済現象を理解し、政策を考えるための道具です。それ自体が国家の進むべき方向を決めるものではありません。市場の力をどこまで生かし、政府がどのような役割を担うのか。それを判断するのは、最終的には政治の仕事です。政治とは、どのような国をつくるのかという理念を掲げ、その実現に向けて政策を構想する営みだからです。行政は、その政策を専門的な知識と経験によって支える役割を担っています。ところが、いつの間にか財源の有無が政策の出発点となり、国家の将来像を描くという政治本来の仕事が後回しにされるようになりました。財務省という「怪物」が生まれた背景には、財務省だけの問題ではなく、政治が自らの役割を十分に果たしてこなかったという問題があるのではないでしょうか。問われているのは、財務省の権限を弱めることだけではありません。国家の将来を構想するという政治本来の役割を、いかに取り戻すかということなのです。

(「あおりんごの経済と金融」)
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