「今日は道徳のことを話題にしたいと思います」
「何か、あったのですか?」
「今日は岸田首相への殺人未遂事件もありましたし、最近の若者たちの軽はずみな行動は、もしかしたら義務教育の時の道徳教育に問題があるのかなと、ふと思ったものですからね」
「成る程、あと、軽はずみな行動というのは?」
「闇バイトに応募したり、回転ずし店でレーンの寿司を手づかみで取って食べたり、醤油差しに口をつけるといった行為を動画撮影してSNSに投稿するなど、軽率な行為が続きましたよね」
「それで、ふと道徳教育というフレーズが頭に浮かんだ訳ですね。ただ、私は息子の道徳の授業を参観したことがありますが、「あれでは……」と思ったことはあります」
「担当者の問題、教材の問題ですか?」
「何と言って表現すれば良いのでしょうか。題材が「ワザトラマン」になっているのです」
「「ワザトラマン」でも上手く作られていれば問題ないと思いますが、そうなっていなかったのですね」
「子供たちの中には、何を自分たちに求めた話なのかを読み取って、「模範解答」を言う子がいると思うのですね」
「道徳的な「模範解答」というのは、実は誰でも分かるというか、分かっているのです。実際には、何が悪しき行為なのかを知っているくせに、それを行っています」
「何が正しい行いかを教えても余り意味がないということですか?」
「AIロボットならば、プログラミングをした通りに動きますので悪しき行動はしません。人間が厄介なのは、悪しきことを知りつつ、それを実行してしまうことです」
「じゃあ、どうすれば良いのですか?」
「知識をインプットするような考え方ではなく、悪しきことと善きことを知った上で、その判断に基づいて行動できるような人格づくりという視点が必要だと思います」
「ここからが本論です ↓ 表紙は「www.ac-illust.com」です」
人間は何が「悪」かを分かっていながら、悪しきことをする動物
小学校は2018年度、中学校は2019年度から道徳の教科化が始まっています。この教科化の措置は、日本人の道徳力を上げるためという目的があってのことですが、単純に教科化すれば目的が達成できる訳ではありません。理由は、人間は「悪しきこと」を知った上で、悪しきことをする動物だからです。
今の道徳教育の考え方では効果が出ません。理由の一つは、教材の殆どが作り話だからです。例えば、テレビドラマでも実話をモデルにしたものなのか、全くのフィクションなのかで、そのインパクトはかなり違います。フィクションの場合は、相当上手く仕掛けを作らなければいけないのですが、やはりどうしても不自然さが出ます。観ている方も、作り話という頭があるからかもしれないのですが、……。
作り話の上に、葛藤が描かれていません。葛藤というのは、自分ではどのようにすべきか分かっているのに、そのように行動できない。葛藤が生まれた瞬間です。そこから、自分の悪しき心を抑えて周りが賛同できる行動を取ったといった場面がハイライトシーンとなりますす。
(「教育新聞」)
実際の教材を批評する
いくつか、教材を紹介します。「車いすの少女」(廣済堂あかつき/6年)という話があります。車いすの車輪が側溝にはまって抜け出せない10歳くらいの少女を見掛ける。男の子が助けようとする。しかし少女の母親がそれを止める。少女は何とか自力で車いすを操作して側溝から抜け出そうとする。男の子も母親も黙ってそれを見つめる。少女はついに側溝から脱出したという話です。
男の子の葛藤が全く描かれていません。障害がある人の自立心を周りの人は妨げてはいけないという意図で作られた教材だと思いますが、子供たちに間違ったメッセージを送る可能性があります。「弱い人」を見て、助けようと思っても、助けないことが正解というメッセージを送る可能性があります。道徳の教材になっていないと思います。
もう1つ紹介します。「二通の手紙」(あすを生きる3日本文教出版/中学3年)という話です――母親の帰りが遅くてさびしがっている子どもたちがいました。動物園の職員さんが、その子たちを、閉園間際に、そっと中に入れてあげます。後日、母親から、感謝の手紙が届きます。しかしその後、その責任を問われ、会社から「懲戒処分」の手紙が届きますが、職員さんは、抗議するでもなく、これでよかったんだと、退職するという内容。
この話は、一応葛藤らしきものが職員の中にはあったと思われるのですが、子供たちにとって良かれと思って行った行為が法令違反だったという話です。この話の問題点は、道徳と法・ルールが混在していることです。混在しているので、良いとも悪いとも判断できなくなってしまった事案です。
本来なら、職員は特別許可を園長もしくは上司から取る必要があったのです。無断で自分の判断で子供たちを入れておいて、結果オーライだろうとは現代社会では許されないことだと思います。
(「ハフポスト」)
人格者と言われる人たちの伝記を載せる
人は、一つの目標に向かって謙虚に努力を重ねる姿に感動する動物です。我々が学問、芸術、スポーツの優れたパフォーマンスに感動するのは、そこまで到達するためには物凄い努力があったことが分かるからです。目にも止まらないスピードのボールを簡単にホームランにしてしまう。本人の才能は勿論あるけれど、そこまで自分の才能を磨こうとした思いと努力の蓄積に無条件に感動するのです。
感動とは、心が感じて、自分の気持ちが動くという意味です。人の心を動かすためには、実際に一つの目標に向かって謙虚に努力を重ねた先人の話を例として載せることです。
高い峰を極めた人たちは、人生の様々な場面で葛藤があったと思います。そこをどう乗り越えたのか、そこが子供たちにとって一番の学びです。一人ですべて乗り越えることは出来なかったと思います。人間というのは、必ず弱気になるものです。どのように仲間の力を集めて、どのように乗り切ったのか。その部分を子供たちに上手く伝えることが出来れば、きっと多くの学びがあると思います。
「内心のあり方を問題・課題にする教育を公教育が担いうるのか、担ってよいのか」(宮澤弘道・池田賢市『道徳って何だ』現代書館、2018年)という意見がありますが、公教育だからこそ担う必要があるのです。人間は教育によって人間になります。動物のような人間を量産するような教育では、社会そのものの崩壊に繋がります。道徳は、その中心的な役割をもった教科です。2つの教材を紹介しましたが、それ以外にまだ多くあります。このような状態では、道徳教育になりません。
(「書籍」)
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