「感染者数の数を見ると、第二波が襲ってきています。小学校はまだ夏休みではないのですか?」
「7月31日が終業式と言っています。夏休みは、息子の学校は3週間しかありません」
「テレビで今日が終業式で、式をしないで全校集会をしていた学校を紹介していましたね」
「その辺りは、市によって違うのではないでしょうか」
「3月に全国一斉休校なんていうことをしたけれど、今考えれば、必要なかったですね」
「それぞれ地域の状況が違いますからね。それぞれの地域の判断で良いと思います」
「熊本は、コロナではなく浸水被害で休校というところもあります」
「オンライン教育も出来るところと出来ないところが当然ありますし、子供の年齢によっては出来ないということもあります」
「小学校3年生だと、どうですか?」
「しっかりした子なら大丈夫かなと思うのですが、ウチの子には、デジタル環境が整っていたとしても無理です」
「この間コロナ禍の中で、文科省はリーダーシップを発揮できていなかったですね。茫然自失という感じでした」
「9月入学説が突然出てきて、まともに検討しようとしていましたよね」
「絶対無理ということを即答しないので、マスコミや政治家が騒ぎ始めるのです」
「5歳入学説もその後、出てきましたよね」
「そちらの方は大きな動きにはなっていませんが、体系だったものを出さないので、枝葉末梢的なことで世の中が動いてしまいます」
「ここからが本論です ↓」
三流官庁扱いの文科省
東大を卒業して文科省に入省して、そこでキャリアを積み重ねて大臣官房審議官、文化庁文化部長を歴任した寺脇研氏が『文部科学省』(中公新書ラクレ.2013年) という題名の本を出版しています。その本の副題が、「三流官庁の知られざる素顔」です。
日本の教育は、先進国では珍しく中央集権制です。多くの権限を握っている文科省が三流官庁では、日本の教育の将来の先行きも暗いので、何が「三流」で、いつから「三流」なのかを探ってみることにしました。
寺脇研氏が紹介しているエピソードに、国家公務員試験の二次試験に合格して、次のステップの省庁面接に臨んだ時のことを書いています。寺脇研氏は当初から文部省(当時)一本だったそうです。それ以外は全く考えていなかったのですが、第二志望、第三志望まで書いて、それぞれの省庁面接を受けなければいけないという決まりだったそうです。
彼は第二志望を厚生省(当時)、第三志望総理府と書いて、それぞれの面接試験に臨んだそうですが、厚生省の面接官に開口一番、「どうして第一志望が文部省で、ウチが第二志望なのか」と聞かれたそうです。
要するに、厚生省の方が上なのに、どうして敢えて「文部省なんかを選ぶんだ? との空気が場に流れ」(寺脇研『文部科学省』15ページ)、そのような「非常識な人間」はいらないということで、「すぐに面接は終わり、廊下で1分も待たないうちに人事担当者が出てきて『残念ですが…』と」(寺脇研 前掲書)告げられたといいます。
一般の社会の感覚とは離れた、「霞が関基準」というものが知らない間に形成されていたということです。本来、省庁間で序列をつけること自体がおかしなことですし、そうならないようにするのが、政治家の腕の見せどころだと思っています。
崇高な目標がないために破廉恥事件が続く
昨日、文科省汚職の裁判がありました。大学支援事業を巡る贈収賄事件です。元局長が東京医科大学の事業計画の書き方を指南することの見返りとして、息子の受験合格をお願いしたという、破廉恥な事件です。
2017年には「再就職等規制違反」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)が起きています。判明したものも含めて、62件の国家公務員法違反、歴代事務次官8人のOBを含む幹部37人に対して、停職や減給などの処分が実施されました。このことで、文科省の事務次官が責任をとるかたちで辞任をしています。
この事件は、簡単に言えば、天下りの斡旋を文科省が組織ぐるみで行っていたことがバレてしまったという事件です。文科省は許認可事務など多くの権限を握っています。審議会などで多くの大学関係者と接触する中で、それが線になり、やがて太い「天下りのパイプ」になっていったということでしょう。
なぜ、このような低レベルの問題が起きるのか。簡単に言えば、組織として崇高な目標が掲げられていないからです。そして、政府も骨太の教育方針を立てようとしていません。普段何も考えていないので、一斉休校と言ったり、9月入学説を唱えたりし始めるのです。
現場主義を忘れてから迷走が始まる
文科省の前身の文部省は、1871年に創設された官庁です。1872年に学制が発布され、近代教育制度がスタートしますが、それは憲法が制定される17年前、議会政治が始まる18年前のことです。
初代文部大臣は森有礼ですが、彼の「自警の書」のレプリカが文科省の「旧大臣室」に掲げられていて一般の人も見ることができます。その最後に「終(つい)に以て其の職に死するの精神覚悟せるを要す」とあります。つまり、教育に命を懸けろと言っているのです。近代教育制度が上手くいくかいかないか、そこに日本の未来と夢がかかっているからです。
それがいつから、そういった気概がなくなってしまったのかということですが、寺脇氏はその境目を明治から大正にかけての時代と分析しています。その辺りを境に、「事業メンテナンス官庁」(寺脇研 前掲書.21ページ)になっていったとしています。やはり評論家の中野好夫氏は戦前の文部省を「内務省文部局」のようなものだったと言っています。つまり、文部省に対する「見下し」は戦前からあったということです。
ただ、そういった文部省も政策官庁を目指した時期があったと言います――「70年代半ばから80年代は、戦後の文部省が……事業メンテナンス官庁からふたたび政策官庁を目指す時期だったと言っていい」(寺脇研 前掲書.27-28ページ)。
ただ、その後文科省は、迷走をし始めたというのが、私の実感です。その原因は、現場から遠ざかろうというベクトルが働いたからだと思っています。そして、「上から目線行政」になっていき、ゆとり教育の失敗、不登校、いじめの問題の噴出、教員の質の低下など様々な問題が出てきます。
本来は教育はアメリカのように、地方分権的に行う方が理に適っていると思います。すべて中央で一律に処理しようとする。そこには、無理があったということでしょう。それは、コロナ対応一つとっても明らかだと思います。
ただ、それはできない、あくまでも中央集権的に行いたいというならば、組織替えをする必要があります。他の省庁とは違う扱いにする必要があるでしょう。
例えば、内閣の直属に教育省を置いて、他の省庁とは違う人事採用にする、政策立案をさせて、予算配分を優先的に与えるなどを考えます。
そのような対策を立てないと、文科省は霞が関周辺では「三流官庁」のまま扱われ、予算に対する権限も、政治的な権限も余り与えられず、その結果、日本の教育がダメになっていくだけだからです。
読んで頂きありがとうございました。
よろしければ、「ブログ村」のクリックを最後お願いします↓
にほんブログ村