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日出る処の天子 ―― 1400年御聖忌にちなんで / 日本という国名が定まる約100年前に活躍

  • 2021年12月28日
  • 2021年12月28日
  • 歴史
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「今、聖徳太子の御聖忌特別展がサントリー美術館で開催されているのですが、ご存じですか?」

女性

「いえ、存じ上げていません」

「変な日本語を使わないように(笑)。サントリー美術館開館60周年を記念しての展示会ということですが、ちょうど聖徳太子が亡くなられて1400年という節目なので、太子の功績を改めて展示しようということです」

女性

「場所はどこですか?」

「六本木・東京ミッドタウンガレリアの3階です。地下鉄六本木駅と直結しています」

女性

「聖徳太子不在説があると、高校の時代習いましたけど……」

「そう思っている方こそ、是非足を運んで欲しいと思います。実は、奈良国立博物館と東京国立博物館で聖徳太子と法隆寺展を開催して、大変好評だったということもありサントリー美術館で開催という運びになったようです。来年の1月10日までなので、あと2週間くらいです」

女性

「だけど1400年忌というのは、凄いですね。この方を忘れてはいけないという意味がそこに込められていると思いますが、評価されている功績は何ですか?」

「一言で言えば、日本のアイデンティティを確立した人ということでしょう」

女性

「『和を以て貴しとなす』という言葉は、私でもさらっと言えますものね」

「和の国、大和の「和」でもあり、令和の「和」ですからね」

女性

「あと、十七条憲法を制定した方ですよね」

「その第一条が先程の『和を以って』の条文です。ただ、そこに彼の苦悩があったと思っています」

女性

「それはどういうことですか?」

「本当に和の国であれば、「和」とは言わなかったと思います。当時の歴史を調べると国内では蘇我氏、物部氏の対立、崇峻天皇暗殺事件、半島では友好国の百済が新羅、高句麗と対立するという状況だったのです」

女性

「要するに、みんなで仲よくしようよという呼びかけでもあったのですね。太子の功績について、以下見ていくことにします ↓」

 日本という国名が定まる約100年前に活躍

聖徳太子が活躍した時代は、日本という国がその国名も含めて、国のかたちを整えていく時代、まさに草創期の時代だったということが言えると思います。外交と言っても当時は対中国との関係しかありませんが、中国は中華思想に基づく冊封体制(華夷(かい)体制)に基づく考えを前提にした外交関係しか認めないという立場でした(現在でも、そういう傾向がありますが……)。

聖徳太子は、それに対して、対等外交を求めたのです。そのエピソードは余りにも有名ですが、隋の煬帝に対して「日出づるの処の天子、書を、日没する処の天子に致す」と書いた文書を送ったことが『隋書倭国伝』に書かれています。当時は、日本は「倭(わ)」と呼ばれていたことが分かります。ただ。この「倭」という漢字は漢の時代の「委」から受け継がれたものです。漢字は象文字なので、すべての形に意味があります。「委」の上の部分は、穂先の垂れた稲穂を表しています。下の部分は、両手を地面に重ねひざまずく女性を表していて、2つを総合するとペコペコ頭を下げる、なよなよしているという意味になります。ここに人偏が付くのですが、一応、人間として認めてあげようという感覚だったと思います。誰も何も言っていませんが、実は完全な蔑称です。

そのように考えていた国から、対等を前提にした手紙を使者が持ってきたので、煬帝は怒り狂ったということです。しかし、この文章に聖徳太子の外交的センスを感じます。外交関係で気を付けなければいけないのは、余分なことを言わないということです。なるべく手短に、相手にこちらのメッセージがすべて届くような文章がベストです。そういう点で、聖徳太子の文は見事だと思います。誰から誰に、そして、お互いの関係はどうなのか、すべて彼の出した短い文章で分かるからです。しかも、これは後で書きますが、彼なりの狙いもあったのです。

(「レキシル」)

 太子が考えたのは天皇中心国家

聖徳太子の時代は天皇の権威が定まっていない時代です。蘇我氏、物部氏といった有力豪族の力のバランスの上に乗っ掛かっているような状態だったと思います。国も一つの組織なので、どうしても中心軸が必要です。その中心軸としての天皇を考えたのです問題なのは、天皇が中心軸であることをどのように認めさせるかということです。蘇我氏、物部氏は、多分首を縦に振ることはなかったでしょう。天皇暗殺事件まで起きている時代です。そこで考えたのが、中国を上手く利用することだったのです。

遣隋使の小野妹子に持たせた国書の書き出しは「東の天皇、敬って西の皇帝……」(『日本書紀』)というものでした。内容が気に入らなくても、国書に対する返事をするのが礼儀、そうすると相手は天皇という言葉を使って返事をするはず、中国の隋からの手紙であれば、豪族たちも一目置くはず。多分、ここまでの筋書きを読んだ上での国書ではなかったのかと思います

この天皇の呼び名とともに、そのもとで国としてまとまっていくという考え方が憲法十七条の「和」(第一条)の一字に結実します。そして、さらに憲法十七条を詳細に検討することによって、太子が目指した日本の国家像が鮮明になってきます。

(「北辰塾☆情報局-FC2」)

 家族主義的な国づくりを目指す

国をどのように作っていくのか、中国を手本にしたと単純に考える人もいますが、中国は戦乱に次ぐ戦乱の国、とてもではないが手本にならないというのが正直なところだったと思います。中国は皇帝に権力を集めて、その力で広大な国土と人民を統治するという考え方です。それとは半ば対照的な国づくりを宣言します――「上和(やわら)ぎ下睦べて、事を論(あげつら)うに譜(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず」(第一条)。大意は、上の者も下の者もお互い親睦の気持ちをもって論ずれば、自然に事は上手く収まると言っています。また、「共にこれ凡夫」「相共に賢愚なる」(第十条)というように、「共に」という言葉を使って、同じ共同体に生きる人間ということで民衆を捉えていたことが分かります。

言ってみれば、国家を一つの大きな家、つまり大宅(おおやけ/公)と見立て、その頂点に天皇を頂き、そのもとで家臣と民が力を併せて国づくりをするというイメージです。ただ、このイメージは太子のオリジナルなものではなく、それまでの大王(天皇)が実践してきたことだったのです。それらを太子が一つの考え方、制度としてその時代において提示したという功績があったということです。

聖徳太子の業績については、実はあまり深く分析されていないのではないかと思っています。次回も太子のことについて、書きたいと思います。

(「サントリー」)

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