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非難決議を上げて、隣国に人権の大切さを教えることが重要——国会はやっていること、考えていることが真逆

女性

「中国共産党に対して批判的な言論を展開してきた香港紙、「蘋果日報」(アップルディリー)が休刊に追い込まれてしまいましたね」

「現代版「焚書坑儒」ですね」

女性

「坑儒がない分、まだマシと考えた方が良いでしょうか?」

「坑儒は儒学者数百人を生き埋めにしたところから来ている言葉です。さすがにそこまで露骨には出来ないですけど、粛清は行われています。しかもたちが悪いのは、一応裁判という形式を踏んでいることです」

女性

「価値観が一つしか許されない社会の怖さだと思っています」

「実は私は「価値観一元化ミニ社会」の体験者なんです」

女性

「何ですか、それは?」

「私が大学に入ったのは1970年代の半ばなんですが、当時の大学は左翼、つまり反権力こそが正しいポジションみたいな雰囲気がありました」

女性

「東京の大学ですよね。私の頃はそういった雰囲気は全くありませんでした」

「それじゃあ、全学連と言っても何もわからないですよね。私の時代は代々木系全学連,三派系全学連などいろいろありました。当時、半分笑い話で言われていたことは、安保の頃は学生にとってデモに出るのは当たり前、問題なのはどのセクトのデモに出るかだ、ということが言われたものでした」

女性

「そういう時代もあったのですね」

「問題なのは、そういったものを社会人になってからも引きずるかどうかということです。結構、引きずっている人が多いと思います」

女性

「日本の共産党は高齢者が支えているという話を聞いたことがあります」

「60年安保の感覚で、今もなお共産党と9条を支持している人が結構いるのではないかと思います」

女性

「ここからが本論です  ↓」

 学生運動があった時代

1960年の安保反対運動をリードしたのは当時の学生たちでした。東大安田講堂というのは、当時の学生運動の聖地となりました。その騒動のため、東大は入試を実施することが出来なかった年があります。安田講堂を学生たちが占拠し、そこに機動隊が突撃をして樺美智子さんという一人の女子学生が犠牲になっています。実は、その余韻が70年代の半ば頃まで、都市部の大学には残っていたのです。大学のキャンパスを歩けば、政治的スローガンが書かれている「立て看」が当たり前のようにある、そんな状況でした。経済学を勉強すると言うと、「近経(近代経済学)にするかマル経(マルクス経済学)にするか」と聞かれた時代です。

(「朝日新聞デジタル」)

その当時流行っていた歌が「いちご白書をもう一度」でした。「いちご白書」というのは、ちょうどその頃に公開されたアメリカ映画ですが、コロンビア大学で実際に起こった紛争を題材にして制作された映画だったのです。

この歌を作詞したのが荒井由美(「ユーミン」)です。学生運動を扱いながらも、それは青春期の思想の「はしか」みたいなものというどこか冷めた感じのポジションから、都会的なラブロマンスの雰囲気を入れて、スマートな曲調に仕上げたのです。当時は、ニューミュージックということで世間に紹介され、数多くのシンガーソングライターが拝出されました。問題なのは、そのノスタルジアとともに当時の学生時代の思考をいつまでも引きずるあり方です

時代の流れと伴に、自身の頭を浄化し、新しき考えを自分の中に採り入れる努力をしなければなりません。いつまでも、化石となった階級史観に捉われて、同じ思考パターンで考えているようでは情けない話です。キャベツにたかったモンシロチョウの幼虫が知らない間に蛹になり、そして蝶になって大空に飛び立ちます。人間も同じです。大きく飛び立つためには、自分を見つめ、硬直した考えから脱皮する必要があります。

(「アメブロ」)

 焚書坑儒の感覚のままの中国

瀬戸俊駿介(しゅんすけ)氏が『玉響』(2013年2月号)の中で、「私と中国」という独占手記を載せています。彼は4歳から14歳まで中国、時には朝鮮に滞在し1953年に帰国、法政大学を卒業するという変わった経歴の持ち主です。その手記の中に、戦後すぐの中国(満州)、朝鮮の様子を書いた文章があります。貴重な体験だと思いますので、ご紹介します。

彼のお父さんは王子製紙の技術者で、当時満州に創立された紙業統制協会に派遣されることになり、一家8人(6人兄弟)で満州の新京市に移ることになります。終戦直前に朝鮮の新義州市にお父さんだけを満州に残して疎開したそうです。「朝鮮人小学校が、我々日本人の生活する場所として提供された。着いた時は、朝鮮人は大変親切に迎えてくれたが、負けたと知るや、すぐさま手のひらを返し、水道は止めるし、略奪は始まるし、大変なことになり始め」たそうですが、その窮地を撤退する日本軍が守ってくれたそうです。その後、一家は父のいる満州に戻ります。

蒋介石の国民党と毛沢東の共産党との内乱が始まります。そのような混乱の中、一家8人は吉林市に移動します。共産党本部から中国の製紙工場の再建に協力して欲しいという依頼がきて、そんなこともあり中国に留まることになります。彼は9歳になっていたので、学校に行くことになった。日本人学校もあったが、敢えて現地の中国人の学校に編入したそうです。その際に、彼の母は良いチャンスなので中国の人たちを理解するために、彼らの中に深く溶け込め、だけど「日本人であることを忘れずに、大和民族の誇りを大切に、今日からあなたは瀬戸駿介個人ではなく日本人を代表する誇り高き男であることを片時も忘れないように」と言って送り出してくれたそうです

共産党政権下では国民党の残党狩りやその時の政府の協力者を摘発して公開処刑が行われていたそうです。学校から強制的に見学に行かされたということがよくあり、中には同級生の父親や兄貴ということもあったとのこと。人権感覚がないことが分かります。

(「アメブロ」/北朝鮮の公開銃殺)

以下は彼の文章です――「たいていは銃殺で、後ろ手に縛られ、卒塔婆を背負わされて、河原の砂利の上に座らされて後ろからズドン、周囲は黒山の人だかり、見学者は絶対同情の言葉や涙を出してはいけない。群集の中に公安が入り込んで、そういう人を反革命分子として逮捕し、思想改造所にぶち込む、それは一種の刑務所で、入れられるといつ出られるかわからない」。

一番印象に残っているのは、国民党の特務が三人処刑された時、これはすごい場面であり、また、感銘を受けた。大きなクレーターのような穴、直径約50メーター、深さ20メーターのすり鉢状の穴。そこへ、その三人を縛らずに放り込み、射殺隊が四方から小銃を乱射する」。彼が感銘を受けたと言っているのは、その中の二人の「死に様」です。自ら穴の中央に行き、正座をして銃弾を受けながら「国民党万歳、蒋介石万歳」と言って息を引き取ったそうです。

 人権の大切さを気付かせるためには非難決議を上げること

1953年、日本赤十字社の働きかけもあり、帰国できることになったそうです。彼は、14歳になっていました。すでに中国語はかなり話すこともできます。お父さんは全東北地区の製紙工場の建設指導にあたっていたため、共産党幹部が連日のように引き留めに来たそうです。しかし、子どもの教育のことを考え、一家で日本に戻ることに決めたようです。

「舞鶴港へ到着。皆、日本語を話している。嗚呼、夢ではない、本当に、ようやく日本に帰れた。夢にまで見た我が祖国日本へ!」で文章は終わっています

裁判にかけずに人の命を奪って、そのまま埋めてしまうという感覚。そこには人権のかけらもありません。わずか約70年前のことです。現在においても、その感覚が引き継がれています。隣国はそういう国であることを深く認識することが大事ですし、それを改めさせるには国際的な世論づくりが大事です。反省なきところに、行動の変化は望めません

日本の国会は中国に忖度して、ウイグルの人権非難決議を上げることをしませんでした。それでは、いつまで経っても中国は人権意識に目覚めません。やっていること、考えていることが真逆です。大きな喧嘩をしたくないのならば、非難決議を上げることです。非難決議を避けていれば、やがては大きな喧嘩をしなければならなくなります

(「You Tube」)

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