「昨日のコミュニティー・スクールの話ですが、文科省には地域教育の青写真があるのですか?」
「青写真というのは、理想形みたいなものですよね。本当に地域の特性を生かした自由な教育をさせたいと思うならば、教育課程編成権を地方に移す必要があると思います」
「教科書も地方ごとに作れることを認めなければいけないですよね。両者はセットですからね」
「そうですね、まさにおっしゃる通り。アメリカで行われている教育のイメージになると思います」
「ただ、そこまで持っていきたいと考えているのですか?」
「それはないと思います」
「どうして、そう思われるのですか?」
「実は今から約15年前に、地方分権が話題になったことがあります。地方分権一括法が制定された時です。高校の現社や政経の教科書には、載っていますけどね」
「もうその頃は、私は高校を卒業していますので習っていません。ちよっと、インターネットで検索してみますね。「地方分権一括法は、地域の自主性及び自立性を高めるための改革を総合的に推進するため、国から地方への事務・権限の移譲を行った」とあります」
「実はその際に、文科省の持っている教育権限を地方の教育委員会に委譲するという話題が出たのです」
「話題で終わったということですね」
「簡単に言えば、文科省が抵抗したのです」
「その時の理由は何ですか?」
「教育の質の維持とか、日本の教育は明治以来、文科省がリードして上手くいってきたとか、理屈はいくらでも付けられます。多分、そういったことを言ったのでしょう。その細かいやりとりは知りませんけど」
「その文科省がコミュニティー・スクールにこだわって、それを推進しているということに違和感を持つのですが……」
「大きな矛盾を隠すために、一つの処方箋のように導入した制度だと思っています」
「ここからが本論です ↓」
近代化を急ぐため中央集権的な教育行政をスタートさせる
1872(明治5)年に学制が発布され、日本の近代教育制度がスタートを切るのですが、それ以来約150年間、文部省(現在の文科省)主導による中央集権的な教育行政が行われてきました。ある意味では、それが日本の教育行政の大きな特徴です。
明治憲法発布が1889年、翌年から議会政治が始まるのですが、文部省の発足は、その約20年も前です。そこに当時の日本の指導者の問題意識があったことが分かります。
つまり、開国してみたら日本が欧米諸国の近代文明から遅れていたことに気付きます。当時の世界は欧米列強による植民地競争の時代です。遅れた日本のままでいることは、やがて日本も欧米列強の植民地支配の憂き目に遭うかもしれません。当時は、植民地経営は合法ですので、世界はまさに弱肉強食の時代だったのです。
(「フォトライブラリー」)
そのことに気付いた日本は、近代化を急ぎますが、まず手掛けたのは人材の育成、つまり教育だったのです。そんなことから、1871(明治4)年に文部省が維新政府によって設置され、翌年近代教育の方針である「学制」が発布されます。今の日本が見習わなければいけないのは、このスピード感です。今は全くないからです。何故なのか。簡単に言えば、「船頭」が多すぎて山に登っているからです。
(「Arasenblog Arasen’s soliloquy」)
中央集権的教育行政は現代にマッチしていない
文部省が設置された1871(明治4)年という年は、廃藩置県が行われた年です。まだ、江戸の封建時代の残滓(ざんし)がある頃で国家の基本的な輪郭さえ定まっていないような時期ですが、どういう国づくりをするかという方向性だけは定まっていたのです。富国強兵、殖産興業です。欧米列強に対抗するためには、その道しかなかったのです。そして、それを推進するためには優秀な人材を教育によって育成する必要があります。その教育事業を国家事業として行うという方針を受けて、学校制度や教員養成など公教育整備を急ぐ一方、督学制度を設け、中央の方針が地方に広がるようにしたのです。標準語を作ったのも文部省です。一つの国として纏まるためには、言葉を統一する必要があるからです。余談ですが、「日本語」ではなく「国語」という教科名にしたのは、その教科で標準語を広めようという意図があったからです。つまり、地方で主流の方言は扱わない、という言外の意味もあったのです。
現代は学校に行くのは当たり前ですが、当時は「百姓に学問はいらない」「女に学問はいらない」ということを庶民が平気で言っていた時代です。明治の初めの打ちこわし一揆で学校が標的になったこともありました。そういった人々に対して、教育の必要性ということを当時の政府・文部省は粘り強く啓蒙していく中で、公教育が次第に受け入れられていったのです。
このように、日本における近代教育行政の整備において、文部省は大きな役割を果たすことになりますが、当時の状況下を考えると中央集権的な教育行政がマッチしていたということです。だからといって、その教育行政が現代にもマッチするということではありません。時代状況が全く違うからです。そろそろ、頭を切り替える時期です。
(「MIRRORZ(ミラーズ)」)
戦後の教育行政、当初の予定は地方分権教育だった
敗戦となり占領下の日本において、戦後の日本の教育のことが話題になります。1946年3月にアメリカから教育使節団が来日して、約1か月滞在をし、「アメリカ教育使節団報告書」をまとめます。
教育行政についての彼らの問題意識は、文部省という行政組織が教育行政を司っているということでした――「日本の学校制度は以前から批判を受けていた。というのは、制度全般にわたって多くの場合、指導的な地位が教育者としての職業的訓練を受けていない人々によって占められてきたからである」(全訳村井実『アメリカ教育使節団報告書』講談社学術文庫、1979年)。つまり、現場に教員免許を持っている教員を充てているのに、その大元の文部省の役人には、どうして教員免許を持たせていないのかということです。
この根本的な矛盾については、現在においても解消されておらず、文科省がこの間トンチンカンな政策(ゆとり教育、記述式、民間業者導入など)を出し続けている根本的な理由は、そこにあると思っています。
それはともかくとして、報告書は「地方分権的教育行政」を推奨したのです。そのために「各都道府県には、政治的に独立の、一般投票による選挙で選ばれた代表市民によって構成される教育委員会、あるいは機関が設置されることを勧告」(同上)され、それを受けて文部省は教育刷新委員会を組織し、そこで公選制の教育委員会制度が提起されることになります。教育委員の数は7名ないしは11名で、任期は4年で2年ごとに改選といったことが内容として盛り込まれた「教育委員会法」が1947年7月に公布され、これによって、戦後の教育行政改革の三原則である、地方分権、民衆統制、一般行政からの独立が一つの形となってスタートすることになります。
このように、戦後の教育行政の当初の青写真は地方分権教育だったのです。ところが、これが様々な事情の中で、再び中央集権的教育行政に戻ってしまいます。その辺りの事情については、明日のブログで書きたいと思います。
読んでいただき、ありがとうございました。
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