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半生を韓国の福祉事業に捧げた方子(まさこ)妃 / 日韓の間(はざま)で埋もれた美談

  • 2020年11月4日
  • 2020年11月4日
  • 歴史
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「『世界が愛した日本』という本があります」

女性

「素敵な題ですね」

「この中には、ユダヤ人を救った命のビザと言われた杉原千畝さんの話もあります」

女性

「日本人の活躍の話ですか?」

「国境を越えて活躍した日本人の姿が紹介されています」

女性

「アフガニスタンで銃撃を受けて亡くなられた中村哲医師のことは載っているのですか?」

「中村医師の事件は、昨年ですよね。この本は2008年に出版されていますので無理ですね」

女性

「台湾の八田與一技師のことはどうなんですか?」

「すいません、入っていません」

女性

「人選はどのような基準なんですか?」

「章立てを見ると、世界の各地域から満遍なく一人ずつという考えだと思います」

女性

「そうすると、アジアの極東地域からは誰が選ばれたのですか?」

「『日韓の架け橋となった』ということで李方子(まさこ)妃が選ばれています」

女性

「韓国との関係を重視したのですね」

「朝鮮王朝に嫁いだ日本の皇族の話ですが、日韓関係にとって必ずしもプラスに作用した訳ではないと思います」

女性

「結果ではなく、日韓の架け橋になろうと自分の人生を捧げたわけですから、そこは評価して欲しいと思います」

「慰安婦像ではなく、こういった方の像を造るのが先だと思いますけどね」

女性

「私もそう思います。現在ソウルの日本大使館に慰安婦像が設置されていますが、代わってそういった方の像を立てるべきだと思います」

「ここからが本論です ↓」




 美しい歴史を今後も発掘する努力をする必要あり

国があって歴史が成り立ちます。その歴史は、あくまでもその国民のための歴史なのです。国としてのアイデンティティを確立し、先人の流した汗と涙の結晶が刻み込まれたものでなければなりません

人間が織りなす歴史の中には、聞きたくもない見たくもない醜い話もあるでしょう。国民の中にはいろいろな人がいます。善人もいれば悪人もいます。そんなことは当たり前です。人間は2つの心をもっているからです。そういうことを振り払い、昇華した話を集めたものが歴史です。だから、そういった美しい歴史を今後も発掘できるようにしなければいけません

その点、この書(四條たか子『世界が愛した日本』竹書房.2008年)は美しい話が散りばめられています。

 日韓の間で揺れ動いた方子妃の半生

この本の第6章は、「もう一つの昭和」ということで、李方子妃の半生が紹介されています

昭和天皇が崩御し、昭和から平成へと移ろった春、まったく同じ時代を生きたひとりの女性が海を隔てたソウルで永眠した晩年を福祉事業に捧げた李方子(りまさこ)は、朝鮮王朝最後の皇太子妃であると同時に、嫁ぐ前の名前を梨本宮方子という日本人女性であった」(四條たか子 前掲書 166ページ)という書き出しからこの章は始まっています。

彼女は生前「私の祖国は2つあります。ひとつは生まれ育った国、もうひとつは骨を埋める国」と言っていたそうです。なかなか言える言葉ではありません。人は誰もが生まれ育った国で終焉を迎えたいと思うものだからです。仮に、事故か何かで自分の命が他国で終わったとしても、祖国で葬って欲しいと思うのが自然の心情です。

たぶん彼女の奥底にある心情はそうだったと思います。それを否定するように、自分に言い聞かせていたのでしょう。彼女の葬儀は1989年4月30日に李王朝の礼式にのっとって執り行われ、夫であった李垠(りぎん)の隣に葬られました。享年87歳です。

彼女が自身の婚約を知ったのは、1916(大正5)年、学習院中等科の3年生の夏でした。ちょうど母、妹と一緒に大磯の別荘で過ごしていた時だったそうです。何気に新聞を開くと「李王世子の御慶事 梨本宮方子女王と御婚約」の大見出しが飛び込んできたそうです。皇太子の李垠の写真と並んで掲載されていた写真はまぎれもなく自分の写真、事前に一言も知らされることがなかった婚約を新聞で知った瞬間、目から涙がとめどもなく流れました。母の伊都子は、その様子に驚きながらも、見守るしかなかったと言います。

かつての日本では、身分が高ければ高いほど、自由な恋愛など許されず、親が決めた相手と結婚するのが通例でした。ただ、そうは言っても一応形の上での承諾を本人から取ったものですが、梨本家の意向と関係なく、話が別のところで勝手に進み、新聞発表となったようです。

 李垠も数奇な運命を辿る

相手の李垠(りぎん)は、李氏朝鮮の26代高宗の第4王子で1897年生まれです。激動の時代の中、日韓の間で数奇な運命を辿ることになります。

日露戦争に勝利した日本は、日本統監府を半島に設置します。初代の統監となったのが伊藤博文ですが、彼は李垠を日韓の架け橋的な人物にしようと考えたのです。国を統治する場合、シンボル的な人間を立てることにより、統治がスムースにいきます。それを考えたのでしょう。

ところが、そのような構想を考え、事実上の後見人であった伊藤博文はハルビン駅で暗殺されてしまいます。その後、日韓併合(1910年)が行われます。

二人の結婚式は1920年に行われています。翌年に第一子が誕生しています。晋(しん)と名付けられた長男と一緒に1922年に朝鮮に夫婦で帰国していますが、その時に、晋はわずか8か月の命を失くしています。毒殺説がささやかれていますが、確かなことは分かっていません。

二人の銀婚式が行われたのは1945年、まだ戦争のさ中に東京で行われています。李垠の甥は広島の原爆により命を落としています。戦後に方子の父の守正が皇族の中で唯一のA級戦犯として一時収監されたこともあり、苦労が相次ぎます。

1931年に生まれた次男の玖(きゅう)がアメリカに留学したこともあり、親子三人でニューヨークでしばらく暮らしています。ところが、李垠が脳血栓で倒れてしまいます。その後、様々ないきさつの中で、朴大統領のとりはからいで帰国の途につきます。1963年二人が金浦空港に着くと、歓迎の花束で埋まっていたと言います。李垠はそのまま韓国の聖母病院に入院することになります。方子は62歳でした。

 晩年は福祉事業に打ち込む

その6年6か月後に、李垠は72歳の生涯を閉じています方子は晩年は、福祉事業に打ち込んでいます。1960年には賛行会という慈善団体を設立しています。彼女は『長すぎた歳月』という自伝を遺しています。その中に「これからの残りの人生を、韓国の社会が少しでも明るく、不幸な人がひとりでも多く救われることを祈りつつ、一韓国人として悔いなく生きてゆきたいと願っております」と書いています。62歳から亡くなる87歳まで、福祉一色だったそうです

李垠と方子の墓碑には「愍民」という文字が刻まれているそうです愍民には、一生イバラの道を歩んだ人という意味があるそうです。方子は韓国国民勲章を追贈されています。当時の韓国の新聞は「自らの不幸な人生を社会活動の献身で美しい人生に変えた」と報じています

皮肉にも、その後韓国に反日の嵐が吹き荒れることになります

読んでいただき、ありがとうございました。

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