
「前回は「封建社会」・「封建制」を話題にしましたが、いかがでしたか?」

「日本には、封建社会と定義できるような時代はなかったということでした。ということは、それに代わる呼び名が必要だと思いますが、その辺りはどう考えていますか?」

「奈良時代から江戸、さらには明治時代の始めまで「神祇官-太政官」の二官八省の律令体制が存続しますので、「律令制社会」で良いと思います」

「分かりました。さて、今回の話題は「鎖国」ということですが、どういう問題意識をお持ちですか?」

「江戸幕府は鎖国政策をとっていたという説明が教科書に掲載されていることもあって、それが一般的に正しい解釈として通っていますが、違うということを説明したいと思います」

「鎖国と言いながら、オランダ、中国、朝鮮とは交易をしていましたからね」

「そういう実態があるのだから、鎖国とは言えないでしょということです」

「にも関わらず、使われ続けたのは、何らかの理由があるのでしょうね」

「そうですね。その辺も含めて、解説したいと思います」

「ここからが本論です ↓表紙は出島ですが「日本の旅侍」提供です」
「鎖国」という言葉がどのように生まれたのか
江戸時代、長崎の出島のオランダ商館に医師として赴任をしたのが、ドイツ人のケンペルです。2年間の日本滞在をもとに日本について詳細な記録を残しました。ケンペルの死後、その原稿をもとに1727年、英語版『日本誌(The History of Japan)』が出版されます。やがてその書が日本に伝えられることとなります。出版されて、およそ100年が経っていました。
この書の中で、ケンペルは幕府の貿易政策を大変評価していたのです。ケンペルはわずか2年間の滞在でしたが、オランダ商館長の江戸参府に2度も随行しています。当然、長崎から江戸までの旅程の中で、日本の各地を見ていますし、庶民の暮らしぶりも知る機会があったでしょう。その中で、海外貿易への依存を限定しながら、国内経済を高度に発達させ、独自の文化を華開かせた奇跡のような「平和な国―日本」の存在に感銘を深めたのでしょう。当時のヨーロッパ諸国が海外進出と植民地獲得、貿易圏の拡大を競っていた時代に、ケンペルはそれとは異なる道を歩む日本に強い関心を抱き、そんな国があることを知って欲しいという思いだったでしょう。
彼の『日本誌』を蘭学者の志筑忠雄が翻訳をして弟子や仲間の学者に読んでもらいます。1801年のことです。当時は海外の情勢に関する翻訳書や政治的な意見を含む書物は、幕府の検閲や処罰のリスクがあったので勝手に印刷して出版することは厳に禁じられていましたので、手書きの「写本」を回し読みしたのです。そして、その時点で表題は『鎖国論』となっていました。ケンペルが貿易で取引する相手国を制限しながら、自国の文化を守り育てている幕府の政策こそが日本を理想郷にしているとの認識を最大限尊重するつもりで「鎖国」という意訳を表紙につけたのです。
自分のことや自国のことについて、気が付かないことが多いものです。ケンペルが書いたものを読んで、志筑忠雄は改めて幕府の貿易政策の素晴らしさを認識するのです。当時は、ロシアやイギリスの脅威が目の前に迫っていた時代です。彼はケンペルの書に感銘を受けます。志筑も基本的にはケンペルの問題提起に共鳴し、その訳題として『鎖国論』という言葉を与えました。しかし、歴史の皮肉で、タイトルだけが一人歩きすることになります。

(「日本の古本屋」)
「鎖国」の実像――幕府が築いた「四つの口」
幕府の貿易政策を正確に言うと、「メンバー限定の制限貿易」と言えます。当時は「四つの口」と言われる4ルートで特定の国と交易をしていました。簡単な表にまとめてみました。
| 窓口 | 主な相手 | 担い手 |
| 長崎口 | オランダ・中国(清) | 幕府 |
| 対馬口 | 朝鮮 | 対馬藩 |
| 薩摩口 | 琉球王国 | 薩摩藩 |
| 松前口 | アイヌ民族 | 松前藩 |
ケンペルが滞在していた時は5代将軍綱吉の頃で、経済も発展し、元禄文化と称される華やかなりし時代でした。オランダ商館長に随行して江戸参府に行った際に、日本人の旅行者が多いのに驚いています。庶民が旅行できるような経済的余裕があったということですが、当時は女性の旅も決して珍しいものではありませんでした。家庭に閉じこもっていたというイメージが強いかもしれませんが、実際にはグループでよく旅行をしていたのです。
そういったブームを受けて、宿泊業はもちろんのこと、飲食業、娯楽産業が活況を呈していたのです。庶民に余裕が生まれれば、文化・芸術が花開きます。ケンペルが目にした元禄期の文化的繁栄は、その後さらに発展します。19世紀になると葛飾北斎や広重などの浮世絵をはじめ、日本の美術・工芸はヨーロッパにも大きな影響を与え、「ジャポニスム」と呼ばれる潮流を生み出すことになります。また、工芸品もヨーロッパ社会にインパクトを与えていました。肥前の有田焼は伊万里(いまり)港を経て長崎から輸出されたので、伊万里焼きと名付けられて大変な人気を誇ったとのことです。

(「Discover Japan」)
なぜ「鎖国=遅れた日本」というイメージが生まれたのか
「『鎖国』という言葉がにわかにクローズアップされるようになったのは、明治に入ってから」と指摘するのは西尾幹二氏です(『国民の歴史』産経新聞社、1999)。西尾幹二氏は、明治以降、「鎖国」という言葉が江戸時代を否定的に捉える文脈の中で強調されるようになったと指摘しています。確かに、文明開化を掲げた明治国家にとって、「閉ざされた江戸」と「世界に開かれた明治」という対比は、新しい時代の正当性を説明する上で分かりやすい構図でした。
藩閥政府は、西洋の制度や技術を急速に取り入れる「文明開化」を推し進めました。この改革を国民に納得させるには、それなりのストーリーが必要だったのです。そのストーリーは以下の通りです。①江戸時代を「鎖国によって世界から取り残された、暗く遅れたアジアの国」と定義する必要がありました。②明治維新によって鎖国の呪縛から解き放たれ、世界に向けて歩み出した日本。③明治新政府は「急速な近代化と不平等条約の改正」に向けて発進した。文明国の仲間入りをさせたのが明治政府である、という「救世主ストーリー」を作り上げるために、鎖国という言葉を旧時代の象徴として意識的に使ったのです。
しかし近年の研究では、これまで見てきた通り、江戸幕府は決して国際社会から完全に孤立していたわけではなく、当時の世界情勢を見極めた上で「国家の安全をコントロールする高度な管理貿易」を行っていたことが分かっています。自立した国家として、付き合って良い国とそうではない国を見極めることは当たり前のことですし、重要なことです。
明治政府による政治的なイメージ戦略が、かなり強力であったためなのか、戦前に作られたこの「鎖国=遅れた悪政」というイメージが、戦後になっても学校教育を通じて100年以上も日本人の常識として定着することになりました。現在は、この「完全に閉ざされた国」という誤解を招くイメージを避けるため、現在の歴史教育や研究では表現の見直しが進んでいます。そのため、近年の歴史教科書では「鎖国」という表記にカギ括弧をつけたり、単なる「鎖国体制」ではなく「幕府の対外政策(貿易統制)」としたりして実態を強調して教える記述へと変化していますが、完全消去で良いようにも思えます。
問題なのは「鎖国」という言葉から「江戸時代の日本は世界に背を向けた閉鎖国家だった」というイメージを抱いてしまうからです。実際の日本は、相手と窓口を選びながら海外との関係を維持していました。「国を閉ざした」のではなく、「国際関係を管理していた」と見る方が、実態に近いのではないでしょうか。そして、「鎖国か開国か」という二者択一ではなく、国家には「誰と、何を、どこまで取引するか」を自ら決定する権利があるという「対外的自立」の問題です。そう考えると、江戸幕府の政策は単なる閉鎖政策ではなく、17世紀の激しい植民地獲得競争の中で、日本が対外関係を自らコントロールしようとした政策だった、と評価することができるのです。そして、その政策が分かるようなネーミングが考えられるべきなのです。

(「日本の古本屋」)
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