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和の国から大日本帝国へ (その5 / 最終回) ―― 失われた「和」の国家理念から令和日本の再生を考える  / 明治の近代化が残した光と影

  • 2026年8月1日
  • 歴史
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「「和の国から大日本帝国へ」というテーマでこの間書いてきましたが、今日が最終回となります。一旦、ここで区切りたいと思っています」

女性

「明治維新期を中心に日本の歴史を辿ってみましたが、読者の方に新たな発見を提供できたのではないかと自負しています」

「あなたにとって一番の発見は何でしたか?」

女性

「今回、江戸時代から辿りましたよね。どうして、そこからスタートするのかなと思っていましたが、因果関係がよく分かって、良かったと思います」

「近現代史となると、普通は明治維新からスタートしますが、本当は江戸時代から辿ることによってこそ、正確に歴史が掴めるのではないかと思います」

女性

「今回、薩摩、長州といった外様の人たちの心情に触れたのも、大きかったです」

「天下普請のことを言っているのですね。ちなみに宝暦治水事件で切腹をした藩士の慰霊のために岐阜県海津市に治水神社が建てられています」

女性

「そうなんですね。そのことは、薩摩から江戸時代を見ることによって分かった史実ですよね」

「来年の大河ドラマで小栗上野介を扱うので、今度は幕府側から見た近代への動きを見ることができるかもしれませんよ」

女性

「ここからが本論です ↓表紙は「linkco.re」提供です」

 明治の近代化が残した光と影

日本人は農耕民族の「一所懸命」のDNAを受け継いでいるからなのか、元来が保守的です。先人の歩いた道を辿っていけば、共同体の運営から人生の歩みまで大過なく過ごすことができたという経験を民族全体で共有しているからだと思われます。ただ、そこで示された基準が絶対的なものではないはずです。例えば、徳川幕府を例に取れば、外様、譜代、親藩という大名の分類や待遇の差は、徳川家との主従関係の歴史的な経緯に基づいて形成された仕組みですが、どこかのタイミングで見直すべきだったのです。結局「獅子身中の虫」が大暴れしてしまい、徳川の統治が跡形もなく消えてしまいました

「獅子身中の虫」というのは、最強の獅子も外敵には負けないが、自分の体に巣食う虫には勝てず、ついには倒れてしまうという仏典の中の例え話ですが、「身中の虫」を暴れないようにするのではなく、虫が居つかないような環境を作れという教えだと思います。普遍の政策・制度などあり得ないのですから、常に時代の流れの中で検証する態度が求められるというのが歴史の教訓です。

「和」の国が、日本がそれまで培ってきた統治理念とは異なる「富国強兵」というスローガンを掲げて近代化を急速に推し進めましたので、当然それは各方面の運用に無理が生じ、様々なひずみが生まれることになりました。中央集権国家をつくって廃藩置県や地租改正、殖産興業を国家主導で強力に推し進め、徴兵制を導入して陸海軍を創設します。これらを近代化への歩みとして一定の評価をしても良いのですが、肝心の社会的な合意を形成することを疎かにしてしまいます。拙速のそしりは免れません。要するに、何のための近代化なのかということです。民の安寧な生活、国の発展を成し遂げるための近代化であったはずです。その原点がいつの間にか抜け落ちてしまったのです。

そのしわ寄せは、庶民の生活に行くことになり、明治に入った途端に拒否反応が出てきます。明治初期(1868年〜1877年頃)に起きた一揆や暴動の件数は、歴史学者の青木虹二氏による代表的な統計(『百姓一揆総合年表』)によれば、およそ500件〜700件近くにのぼります。江戸時代が260年間で約3,200件(年平均で十数件)だったのに対し、明治初期はわずか10年間で500件以上が集中しており、異常な高頻度で一揆が発生していたことが分かります。特に新政府の基礎が固まる前の1869年(明治2年)や、新政策が次々と打ち出された1873年(明治6年)頃にピークを迎えましたそのように表面的な抵抗だけではなく、日本脱出という道を選んだ人たちもいました。歴史学では海外移民と説明していますが、実態的には国外逃亡民だと思います。1930年代までのおよそ60年間に150~200万人が国外に脱出しています。当時の人口は4千万~5千万くらいなので、率に直すと3.8~5%くらいになります。中国では習近平の12年間で100万人が亡命したと言われています。政治体制や国際環境が違ったものを単純比較するのは難しいかもしれませんが、率にすれば日本の方が圧倒的に多かったのです。このような民衆の拒否反応に対して、為政者はそれまでの政策を一旦顧みる必要があったと思います。立ち止まることなく前進あるのみで突き進んで行ってしまいました。

 「和の国」の理念はなぜ忘れられたのか

聖徳太子が説いた国家観は「家族主義的国家観」です。西洋の国家観のように国家と国民を対立関係で捉えるのではなく、為政者も民も同じ家族の一員と考えます。「おおみたから」である民にいかに寄り添うことができるのか、和の国を実現する鍵を握るのは、為政者であると考えていました。その具体的な在り方は、『古事記』の仁徳天皇の“民のかまど”の話——税を取る時は民の煮炊きの煙の数によって判断する――で示されています。

和の国のプランは天武天皇の「太政官—神祇官」の律令制度によって具体化されます。天皇は権威者(シラス者)として皇祖神を祀る神祇官の立場から国全体を治めます。そして、実際の政務は太政官に任せるという、権威と権力の分離方式を採用しました。シラス者と地方の統治者(ウシハク)とは委任関係によって全国的なネットワークを形成します。日本は地形的に大変複雑な国ですし、山地が国土の70%もあり大河がなく物資や人の運搬が容易ではありません。そのような条件下で地方分権を採用したのは、極めて合理的な判断だと思います。地域の実情に合った政治を行うことが、民に寄り添うことであり、そのためにはそのようなシステムが最適であろうという判断があったと思われます。

中央集権はどうしても独裁体制になりがちです。ましてや日本の場合は、憲法制定と中央議会の開設が遅れたので尚更でした。1889(明治22)年に帝国憲法が発布されます。日本の伝統的統治のかたちである「シラス-ウシハク」が受け継がれているかどうかが問題ですが、結論から言うと「ウシハク」の規定がありません。そもそも行政に関する第4章「国務大臣及枢密顧問」の条文は2条しかなく、内閣、内閣総理大臣、そして国政の重要機関である枢密院といった言葉すらありません。これはどういうことなのか。要するに、憲法の起草案ができた時点で薩長による藩閥体制が出来ており、憲法の規定に左右されない統治を起草責任者である長州出身の伊藤博文が考えたため、内閣、内閣総理大臣といった言葉を入れなかったのです。

重要機関の枢密院ですが、確たる定員は定まっておらず、25人前後で構成されていました。構成メンバーは、薩長の代表者、官僚、軍閥、学識経験者、華族で、一度任命されれば原則「終身任期」が保証されていました。このような組織を何のために作ったのでしょうか。初代議長の伊藤博文に「議会や政党の暴走を止める」ため、「不偏不党の立場から冷静に憲法を護持し、公明正大に天皇を輔弼(ほひつ)する独立した機関」(『憲法義解』)が必要との認識があったためです。輔弼という言葉を使っているのは驚きですが、内閣はあくまでも表向きのもので、この組織によって天皇と国家を支えることを考えたのです。しかし、昭和の時代に入ると政党内閣が力を失う中で、軍部が力を握り、枢密院ですら、それを十分に統制できなくなり、戦線が勝手に拡大していったのです。ここでも「獅子身中の虫」が暴れてしまったのです。

(枢密院/「ジャパンアーカイブズ」)

 令和の日本は何を取り戻すべきか――「和」の理念を未来へ生かすために

人は失敗をする動物です。日本という国もその歴史の中で何回か失敗をしています。「失敗は成功の基」とも言います。大事なことは、それを糊塗(こと)するのではなく、原因を明らかにして今後の教訓とするべきです。そうすれば、その失敗が成功への架け橋になるはずです。

さて、今回は「獅子身中の虫」をキーワードにして江戸と戦前の失敗を指摘したつもりです。「獅子身中の虫」というのは、要するに内部崩壊です。我々人間にも言えることですが、健康に悪い習慣を改めず、自ら病気を呼び寄せてしまうことがあります。実は、国も同じです。崩壊する原因は殆どが内部崩壊です。我々はどうしても外部からの攻撃を意識しがちですが、最も注意を払わなければいけないのは国内の状況です。そして、最も弱いところから病状が進みますので、一番弱い環(かん)に着目して、そこを手当する必要があるのです。

ところで、現代社会において手当てすべき箇所は、どこでしょうか。ここ10年、急速に少子化が進んでいます2016年に100万人割れしたと大騒ぎをしましたが、10年後の2026年には70万人を割っています。この急激な減り方は尋常ではありません。人間で言えば急激に体重が減って体力が落ち始めたということです。こういう時は細胞レベルで病変が進行していることが多いのです。国にとっての細胞は共同体です。日本は地縁社会として様々な文化を生み出してきた国ですが、地域共同体が空洞化し始めて人と人との繋がりが弱くなり、個人と市場と行政しかないような国になりつつあります。

日本は一度、近代化という時代の要請の中で中央集権国家への道を選びました。それは当時として一定の合理性を持っていたと言えるでしょう。しかし、その制度は160年を経た現在、人口減・少子化や地域衰退、東京一極集中など、新たな時代の課題に十分対応できなくなっています。今求められているのは、日本が長い歴史の中で培ってきた「和」の理念や地方分権の精神を、現代の制度の中にどう生かすかを考えることです。民を「おおみたから」と呼び、民に寄り添うことによって「和の国」の実現を説いた教えを為政者だけではなく、様々な組織の責任者を含めて全国民が心に留めるべき教えだと考えます。その意味で、「和の国」の理念は過去の遺産ではなく、未来の日本を構想するための重要な手掛かりになるのではないでしょうか。

(「イートリート」)

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