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なぜ日本には「馬車文化」がなかったのか ―― 日本列島の地理から考える元寇・江戸の交通政策・幕府崩壊 /「神風」の陰に隠れた「攻めにくい国・日本」

  • 2026年8月11日
  • 2026年8月11日
  • 歴史
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「沖縄の西表島に行ってきたそうですね」

女性

「2泊3日の旅を楽しんできました」

「石垣島まで飛行機で行って、その後はフェリーですか?」

女性

「そうですね。フェリーの乗船は30分位でした。島の約90%が亜熱帯の原生林や自然林で覆われて、自然が一杯のところです。イリオモテヤマネコで有名ですけどね……」

「島の大きさで言えば、石垣島より大きいのですけど、自然そのものという島なんでしょうね」

女性

「沖合400mくらい離れたところに由布島という周囲2kmくらいの小島があるのですが、そこまで牛車に乗って行ったんですよ。生まれて初めて乗りました!」

「それは貴重な体験でしたね」

女性

「水牛というのは本当に力持ちなんですね。20人位を乗せて平気で歩くのです。頭が良くて、御者の人が沖縄民謡を演奏している時は、動かないのです」

「さぼっても叱られないことを知っているのですね。ところで、日本には牛車はあるのですが、馬車はありません。どうしてだか、分かりますか?」

女性

「えっ、そんなこと考えたことがありませんでした?」

「実は、日本の道路で馬車を走らせないというのは、明治まで続いた日本の伝統なのです」

女性

「どうして、そういうことを決めたのですか?」

「それについては、本論で話をします。ここからが本論です ↓表紙は「Yahoo!知恵袋-Yahoo!JAPAN」提供です」

 なぜ日本には「馬車文化」が生まれなかったのか

平安時代の貴族たちが牛車を日常的に使っていたことは、貴族たちが書き遺した日記や絵巻物によって確認できます。『源氏物語』の中には、牛車を使って祭りの場所取りをする場面が描かれています。『更級日記』には、牛車に揺られて寺社の参拝に行ったことが書かれています。このように、牛車は日本人にとって馴染の乗り物だったのですが、馬車に乗ることはありませんでした。日本には馬に乗る文化はありましたが、ヨーロッパや大陸のような馬車文化は発達しませんでした。日本の地形や気候に加え、馬が貴重な軍事資源であったことや、江戸時代には馬や車の利用にさまざまな規制があったことなど、複数の理由が考えられています。

日本には、馬に乗る文化はあったのですが、馬車に乗る文化はなかったということです。ところで、馬車がどの民族が発明したのかについて、定説はないとのことです。ただ、「必要は発明の母」と言います。恐らく中央アジアの平原地帯を人や荷物を運搬するために、二輪の馬車が発明されたのが初めだろうと言われています。そして、それが「戦車」として使われるようになります。1人の御者と1~2人の弓の射手を乗せて、戦場を颯爽と走る馬車が今で言うところの戦車だったのです。

馬車が日本で実用化されなかったのは、日本の地理的条件に因るところが大きいと思います。日本列島は国土の大部分を山地・丘陵地が占め、平野は河川沿いの限られた地域に形成されています。馬車が活躍するようなスペースがなかったということです。

そして、馬そのものが大事な兵器と考えられたので、その馬に車を引かせるのは「トンデモナイ」という感覚だったのです。人が乗って移動して良いのは「駕籠(かご)」という人力の乗り物だけであり、動物に車両をひかせて人間が移動することは、一部の特権階級(天皇や公家、将軍など)の牛車以外には見あたりませんでした。これは余談ですが、明治時代、それまで「人間が乗ることはない」とされていた馬車が一気に解禁され、日本の近代化(文明開化)を象徴する最初の「馬車ブーム」が巻き起こりました。1869(明治2)年、乗合馬車が日本橋〜横浜間に開設されましたが、ガタガタな未舗装路を走ったため、乗り心地は悪かったそうです。

(「大江戸歴史散歩を楽しむ会」)

 「神風」の陰に隠れた「攻めにくい国・日本」

『土地の文明』『幸福な文明』の著者の竹村公太郎氏は、馬車に適さない風土こそが日本を外敵の侵入から守ってきたと言います。鎌倉時代の13世紀に元寇がありました。神風が蒙古軍を吹き飛ばしてくれたという話になっているようですが、実際には1274年の文永の役の時には海岸の防衛線を突破され、博多の町を一時的に制圧されています。日本勢総崩れの中で危機が迫ったのですが、元軍は謎の行動をします。突如として、全軍が引き上げたのです。元軍の副将に矢が当たり、指揮が出来なくなったためであろうと言われていますが、はっきりとしたことは分かっていません。

二回目の弘安の役の時には、前回の文永の役を上回る総勢十数万という大軍を日本に向けて派遣します。ただ、この時は相手の戦い方を踏まえて対応しましたので、簡単に防衛線は破られませんでした。持久戦の様相となり、沖に停泊していた元軍に大型台風が直撃したのです。元軍は壊滅に近い打撃を受けました。そして、この史実が神風神話を作ることになりました。台風の襲来を専らラッキーな事と捉えていますが、日本の土地が防衛には大変好都合であることを強く認識する機会を逃すことになり、実は不幸な出来事だったと思っています。

というのは、仮に防衛線を突破され、多くの騎馬部隊が上陸をしたとしても、道が細く、深さが50cm~1mのドロ田・沼田だらけの日本の大地では、彼らの機動力を発揮することはできなかっただろうと先に紹介した竹村公太郎氏は述べているからです。軍隊にとって重要なのは兵站(へいたん)です。大陸では巨大なゲルを載せた馬車や数千台の補給馬車で移動していましたが、日本の国土は起伏が多い上に道が狭く、大きな馬車を通せるような道は殆どありませんでした。少なくとも、大陸で発揮したのと同じ機動力を日本列島で再現することは極めて困難だったでしょう。

(「nippon.com」)

 江戸の交通政策はなぜ幕末に限界を迎えたのか

日本列島の複雑な地形は、外敵にとって攻めにくいという利点をもたらしました。しかし、その利点は裏返せば、国内における大量輸送や軍隊の迅速な移動にも不利だったということです。しかし、江戸幕府は、この地理的制約を克服する方向ではなく、むしろ政治的・軍事的な統制のために利用したのです。東海道、中山道、甲州街道など五街道や宿駅伝馬制度を整備したものの、それは「高速・大量輸送」を目的とする近代的交通体系ではなかったのです。徳川幕府は大井川、安部川などの川に橋をかけませんでした。これも幕府防衛を考えた措置でした。軍隊を素早く動かすことより、諸藩の軍隊を素早く動かないようなことを考えた措置でした。当然、問題を起こした藩に対して迅速な武力制裁ができなくなります。幕末になって、幕府の権威が落ちていきますが、幕府のインフラ整備の考え方が旧態依然であったことと関係があるのです。

江戸時代の道路政策を世界的に見て極めてユニークな「馬車のない高度な陸上交通網」として評価する向きもありますが、一面的な評価です。交通網は最新のもので整備するのが基本です。当時は馬車が機動性プラス大量輸送手段として一番優れていたはずですので、それが全国の主要都市に行くことができるように幹線道路を整備すべきだったのです。そして、それに合わせて、近代軍隊を創設する必要があったのです。

幕末に長州征伐(長州征討)がありました。長州藩が京都で武力衝突事件を起こしたためです。第一次長州征討では、長州藩が恭順姿勢を示したため、本格的な戦闘に至らないまま幕府側が目的を達成しました。しかし、その後の第二次長州征討では、いち早く西洋式の軍事改革を行った長州藩などの前で、幕府の軍隊は破れ去りました。諸藩兵を寄せ集めた軍隊であったこともあり、指揮系統や装備、士気などの面で十分な統一性を欠いていたことが原因とされています。2回目の征伐は失敗となり、幕府の権威は失墜します。結局、それによって倒幕運動が盛り上がるきっかけとなります。

要するに、平和を維持するためには合理的だったシステムが、外圧と近代戦の時代には不合理なシステムへ変わったということです。時代の流れに合わせてインフラ整備をしなかったことがいけなかったのです。

【参考文献】増田悦佐『奇跡の日本史』(PHP研究所、2010)

(「中学生のためのよくわかる歴史」)

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