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明治維新は「自然村」をどう変えたのか ―― 江戸の自然村から明治の大合併へ / 明治の近代化は何を壊したのか

  • 2026年10月17日
  • 歴史
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「相も変わらず、「明治維新中心史観」が蔓延(はびこ)っています」

女性

「それでは、マズイとお考えですか?」

「物事は光があれば、影の部分があります。評価する部分と、批判する部分、分ける必要があるのに、「近代化」という視点から全面的に賛美する傾向があります。」

女性

「複眼的に見なければいけないということですね」

「エドワード・ルトワックという人は、近世・近現代400年の起点は江戸にありと言っています」

女性

「そういう見方もあるんですね」

「歴史はいろんな切り方があります。下から見て、今までとは違った見解を発表しても良いと思います」

女性

「野球の常識も変わるように、歴史の常識も変わるということですか?」

「そうですね。史観が変われば、見方も変わります。今回は、江戸から明治の節目を下、つまり民衆のレベルから見てみようと思います」

女性

「なぜ、そのようなことを思ったのですか?」

「大きな変革が明治にありました。これについては、誰もが認めるところだと思います。その変革の中で民衆が大きく振り回されています。それについて述べたいとと思います」

女性

「ここからが本論です ↓表紙は「メルカリ-Mercari」提供です」

 江戸の繁栄を支えた自然村という共同体

江戸時代は約260年間の平和と繁栄、さらには日本的な多くの文化が華開いた時代でした。教科書には、寛永期の文化、元禄文化、宝暦・天明期の文化、化政文化が紹介されています(日本史探究『詳説 日本史』山川出版社)。明治維新から現在までの約160年間で成立した「日本的な文化」といえるものは近代文学、アニメ文化くらいのものでしょう。江戸時代には、地域ごとに特色ある「日本的な文化」が育まれ、都市では町人文化が花開きました。江戸時代の特徴は、地域共同体の生活や信仰、祭礼などと深く結びついた文化が、各地で継承されていたことです。具体的には、相撲、歌舞伎、浮世絵、各地の祭りなどです。江戸時代の文化の多様さを見ると、庶民が生き生きとしていた時代であったことが分かります。なぜ、このような文化的多様性が維持されたのでしょうか。文化は歴史の中で自然に発生するものではなく、共同体の存在と為政者の理解、この2つのコラボレーションによって形成されるものです。自然村という共同体が機能していたからに他なりません。その視点から江戸から明治の転換点を見ていきたいと思います。

江戸時代には、年貢徴収や行政の単位となる村が全国に6万余り存在していました。その内部には、生活共同体としての自然村があり、村人たちは日常生活のさまざまな場面で協力し合っていました。それを各藩が統治をし、その連合体の上に日本が乗っかっていたような国でした。渡辺尚志著の『年貢』(中公新書、2026)によると、元禄時代(1697)における村の数は6万3276だったとのこと。一つの村の戸数は50~80戸、人口は400人くらいであっただろうとされています。

年貢ですが、1716年から1812年までの約百年間の全国統計が掲載されていて、平均すると35%くらいの租税率であったことが分かります(「同上」)。年貢は米による物納が基本でしたが、地域や時代によっては金納も行われていました。そして、江戸時代は村請制と言って、村全体に年貢が課せられましたので、仮にある家が事情により米を作れず年貢が払えなかったとしても、それを周りがカバーできました。共同体そのものが共済団体だったのです。もちろん、村請制には連帯責任による相互監視という側面もありました。それでも、村人たち互いの生活を支え合う仕組みが、日常の中に組み込まれていたことは見逃せません。実際に、農作業はもとより、治安対策、子育て、縁談、防災、経済、情報交換、祭りや行事など、ありとあらゆることを村ぐるみで行っていたのです。

「斬り捨て御免」という言葉が遺っていますが、「百姓は、武士に生殺与奪の権を握られていたわけではない。武士は正当な理由なくして、百姓の生命・財産を奪うことはできなかった」(同上)と言います。「士農工商」という言葉が階級社会だったと思わせる原因になっていますが、中世以降、「領主には、物心両面で農業生産を支える義務」があり、年貢の使途について百姓は意見が言えたとのことです。百姓はヨーロッパの農奴とは違います。土地の保有や相続などについて一定の権利を持ち、さまざまな制約はありながらも、商業活動や旅行などを行うこともできました。御家人株などの取得を通じて武士身分に移る例もありましたし、頭を丸めて僧侶になる者もいたのです。ある意味、共同体の民たちにとっては、良き時代だったと思います。

(「taketakechopの小話の世界」)

 明治の中央集権化と自然村の自治能力

急転直下、明治の時代になり、共同体の民の生活が暗転します。明治政府は、徴税、徴兵、教育、治安などを全国的に統一するため、従来の地域社会を中央集権的な行政機構に組み込もうとしました。そのことは、従来自然村が行ってきた自治的な活動を否定することでした。そういう意味で、明治維新のプロセスは、庶民にとっては「苦難の時代の始まり」でした。自然村は、放っておいても自分たちで水路を管理し、治安を維持し、貧しい者を助け合う極めて高い「自治能力(潜在的な力)」を持っていました。しかし、新政府の中央集権国家の建設にとって、集団ではなく、個人一人ひとりを把握することが必要だったのです。

明治の為政者たちは西洋風の中央集権国家、つまり階級国家をつくらなければいけないという強迫観念に捉われていました。まず、国家と国民(個人)という関係をつくる必要がありますので、地券を発行して田畑についての個人の所有権を明確にします。これによって「個人主義の種」をばら撒いたのです。それまで村を単位として課されていた年貢は、地租改正によって土地所有者個人を納税義務者とする金納の税へと転換しました。これは単なる税制改革ではありません。国家が共同体を介さず、土地所有者個人を直接把握する仕組みを整えたという意味で、国家と地域社会の関係を変える重要な改革でした。地租は個人にかかってきますので、税金が払えない者は田畑を売って、その後小作農として働く、もしくは都会に出て仕事を見つけるしかありませんでした。中には、海外に活路を求めた者もいました。

その後、「大区小区制」を導入します。固有名詞が付いていた自然村に「第1大区3小区」といった数字だけの無機質な名前を付けて管理しようとしたのです。大蔵省の大隈重信や前島密が参考にしたのは中央集権体制を敷いていたフランスの地方行政制度でした。フランス革命後、新政府はそれまでの封建的な領地や伝統的な地域区分をすべて解体し、合理的に統治するために国内を機械的に区画し直したのです。それに倣ったのですが、各地で一揆が多発するなど、当然のように大変な反発が起きました。大区小区制は、従来の地域社会との不整合や行政運営上の問題を抱え、1878年の地方三新法(郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則)によって改められました。郡・区・町村という伝統的な地名や地域区分が再び制度に取り入れられましたが、それは江戸時代の自治制度がそのまま復活したことを意味するものではありませんでした。

(「ameblo.jp」)

 明治の大合併――失われた自治と残された村の名前

「大区小区制」は農民の猛反発(一揆)でわずか6年で崩壊しました。政府は一度は「郡区町村編制法」で自然村(約7万)の単位を復活させざるを得なくなったのですが、あきらめずに解体の試みを仕掛けてきたのです。1889(明治22)年、今度はさらに強力で周到な「明治の大合併(市制・町村制)」を断行します。約7万あった自然村は、国が作った人工的な行政区画である約1万6,000の「行政村(新町村)」へと強制的に統合されることになりました。

明治政府は町村合併によって自然村を行政単位として再編する一方、新たな地方自治制度を導入しました。しかし、それは地域社会が長い歴史の中で培ってきた自治とは異なり、国家の法制度と監督の下に置かれた自治でした。行政上の町村と、住民が生活を営んできた自然村との間に、大きな隔たりが生まれたのです。自然村は直ちに消滅したわけではありませんが、行政上の自治単位としての地位は大きく変わりました。そしてそれは、文化国家・日本の終焉であると同時に帝国主義・日本が誕生した瞬間だったのです。

明治政府は地租改正と並行して、山林原野の官有・民有区分を進めました。その過程で、自然村が共同利用してきた入会地の一部が官有地に編入され、住民と国家との間に深刻な対立が生じました。さらに、明治の町村合併によって、旧村の共有財産の管理をめぐる新たな問題も発生しました。そのさらに、1906(明治39)年以降には、神社合祀政策が本格化しました。「一町村一社」を目指す政策の下で、それぞれの自然村が心の拠り所にしていた氏神(神社)までもが、「1町村に1神社」という効率性のために数万社も取り壊され、統合されました。行政上の町村再編に続いて、地域共同体の精神的な結びつきにも国家の政策が及ぶことになったのです。

町村合併について、戦後の歴史学者たちが全国の県庁や旧町村に残された地方文書(日記、嘆願書、警察記録など)を掘り起こした結果、合併対象となった約71,000の町村のうち、何らかの形で住民側からの拒否、知事への直訴、同盟罷業(ボイコット)などの「紛争」が発生した町村はかなりの数に及ぶと推計されています。福井県文書館が紹介する1888年の内務省の町村合併標準には、新町村の名称について、旧来の地名や住民感情を尊重するよう求める規定がありますし、各地に「妥協の産物」として遺っている地域の名称にもその痕跡を求めることが出来ます。

一番分かりやすいものが「大字(おおあざ)」「字」でしょう。例えば、「□□区大字〇〇字△△」という住居表示だとすると〇〇に村の名前が入り、△△は以前から存在する地名区分が入ります。明治の大合併で複数の村が統合されても、旧村名が「大字」として残された地域は少なくありません。新しい行政村が成立しても、住民が長く使ってきた地名は、その下位の地域名称として引き継がれたのです。せめても村名や地名を後世に遺したいと思う村人たちの思いは〇〇や△△の中に込められたのです。ただ、中には、どの村の名前を残すかで揉めて、結局合併した村の数を村名にしたところもありました。六ケ所村、七会村、冨里(十三里(とみさと))村がそうです。いくつかの村名を1字ずつ取って合成したところもありました――「谷津(つ)村+久々田(だ)村+鷺沼(ぬま)村」=津田沼、「仕出村+七鳥村+東川村」=仕七川。村名論争が泥沼化し、どの村の文字も使えない場合の最終手段として、中国の古典などから「めでたい文字」を引っ張ってきて新しく作った地名もありました。「美和」「栄」などです。現在、全国に同じような「美里」「美和」「栄」という地名が大量にあるのは、明治の大合併での妥協の産物なのです。

(「Wikipedia」)

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