
「ミッドウェイ海戦は知っていますよね?」

「先の大戦の行方を左右した大きな戦いですよね」

「そのものズバリ『ミッドウェイ海戦』(文春新書)が話題になっているというので、買ってきました」

「終戦から80年以上経って、そういう本が話題になること自体が驚きです」

「この本は2026年6月に出版されていますが、9月にはもう4刷です」

「相当な勢いで売れているということですね」

「新書で、しかも地味な題名で、これだけ売れるということは凄いことだと思います」

「いまだにミッドウェイについて関心を持っている人が多いということですね」

「というか、ミッドウェイ海戦については、惨敗した事実そのものを隠蔽しようとしてきました。それが、徐々に明らかになり、今回の新書で今での流れが整理され、真実が明らかにされたということだと思います」

「それまで関わったり、関心を持ったりした人が購入したということですね」

「ここからが本論です ↓ 表紙は「www.amazon.co.jp」提供です」
敗戦への分岐点――ミッドウェイで失ったもの
ミッドウェイ海戦というのは、1942(昭和17)年6月5日から7日にかけて、太平洋のミッドウェイ島付近で日米が激突した戦いです。この戦いで日本海軍は、壊滅的と言うに相応しいほどの被害を出します。空母4隻に加え重巡洋艦「三隈」を喪失、空母搭載機約250機も失いました。その他、艦船数隻が大破・中破しています。日本側の戦死者・行方不明者は計 3,056名(澤地久枝氏の調査による実数)にのぼります。沈没した4隻の空母や重巡洋艦の乗組員、特に機関科(船の底でエンジンを動かしていた兵士たち)は、脱出が間に合わず多くが艦と運命を共にしています。
さらに深刻だったのは、航空機そのものだけでなく、4隻の空母を中核として築き上げてきた機動部隊という「戦闘システム」を失ったことです。熟練搭乗員の多くはこの海戦を生き延びましたが、彼らもその後のガダルカナル・ソロモン方面の消耗戦で次々と失われていきました。そして、戦争は一種のチーム戦です。真珠湾以降、阿吽の呼吸で世界最高峰の連携を見せていた「最強の空母機動部隊」でしたが、その最強チームがわずかな期間のうちに、この地上から消えてしまったのです。
ある意味当然のように、この海戦を境に、太平洋における戦略的な主導権は次第にアメリカ側へと傾いていくことになります。日本はこれ以降、二度と大規模な攻勢に出ることができなくなり、ガダルカナル島、サイパン、そして本土防衛へと、ひたすら防戦一方(敗北の坂道)を転がり落ちていくことになります。ある意味、分岐点となった戦いであり、「昭和20年8月15日に至る敗戦への道程の『はじまり』でもありました」(大木毅『ミッドウェイ海戦』)。

(「www.amazon.co.jp」)
敗北はなぜ『運命の五分間』に書き換えられたのか
問題なのは、その後の「処理」です。国民に対しては、「空母1隻喪失、1隻大破、敵空母2隻撃沈」という虚偽の戦果が報じられました(「大本営発表」6.10発表)。日本国民の間には、「無敵神話」が流されており、真実を報道すれば、国民の士気が低下し、戦争が継続できなくなる恐れがあると考えたのでしょう。さらに、実際の被害を明らかにすれば、海軍上層部の責任問題に発展すると思ったのでしょう。ミッドウェイ海戦の内容そのものが秘密事項になってしまったのです。
「海軍の隠蔽工作にもすさまじいものがありました」と大木氏は書いています(『ミッドウェイ海戦』)。海戦で生き残った人たちもいます。彼らは当然、実情を知っているはずですが、そこから真実が漏れることを恐れたのか、特に機動部隊の将兵や搭乗員は「上陸を許してもらえず、軟禁状態に置かれた」(同上)とのことです。その他の将兵は、病院や他部隊へ転属させて厳重な情報統制を行ったのです。そして、その中で生み出された話が「運命の五分間」でした。その内容は、あと5分という時間があれば、爆弾を積み終えた攻撃機の全機が発艦し、アメリカ軍を壊滅できたというものです。発艦するわずか5分前にアメリカ軍の急降下爆撃機が突如として飛来し、爆弾を落とされ、空母が大破してしまったという虚偽のストーリーが作られたのです。
現在でも、「運命の五分間」が実際にあったという立場からの言説が時折流れているそうですが、現在では、日米双方の戦闘記録や航空機の運用記録が照合され、「あと五分あれば日本側攻撃隊が発艦できた」という説明は成り立たないことが明らかになっています。歴史は証言だけで作られるものではありません。証言を史料によって検証して初めて、事実に近づくことができるのです。その点、大木氏の今回の著書の中で、海戦を時間軸で分かるような表が資料として掲載されています(P.198~)。海戦当日は分刻みで書かれています。良く調べたなと思うと同時に、その大変さを思うと頭が下がります。

(「BEST TiMES (ベストタイムズ)」)
神話を崩した澤地久枝――責任を問うということ
「運命の五分間」というのは、海戦当事者だった草鹿龍之介、淵田美津雄、奥宮正武らの戦後の証言・著作を通じて広く定着した説明ですが、戦後に一旦は通説として定着します。1973(昭和48)年に文藝春秋社から発刊された『ミッドウェー戦記』では、「運命の五分間」が前面に出されていたと大木氏は語っています。その時点で、もうすでに終戦から28年も経っています。そのまま、通説として定着するかに見えた時期に一人異論を唱える人が出てきたのです。ノンフィクション作家の澤地久枝氏です。彼女は、「ミッドウェイ海戦の日米の戦死者3,418人全員(日本側3,056名、アメリカ側362名)を突き止め、どこでどういう形で亡くなったのかを調べ上げるという偉業をなしとげ」たのです(『ミッドウェイ海戦』)。かけた年数が10年、かかった費用が当時の金額で4千万を超えたそうです。取材のために何回もアメリカに行っているからです。
彼女をそこまでの行動に駆り立てたのは、一体何だったのでしょうか。無謀な作戦指導で多くの若者を死に追いやりながら、戦後もなお「不運の美談」へとすり替えて自己弁護を図る海軍上層部の無責任な体質を許せなかったのです。実際に、戦争の行方、さらにはその後の日本の行方にまで影響を与えるような敗戦だったと思います。しかし、当時の司令部の幹部たちは軍内の地位を維持したまま、誰も責任を取ることはありませんでした。
南雲忠一 中将(機動部隊最高指揮官):海戦のわずか1ヶ月後に新設された空母部隊(第三艦隊)の司令長官にそのまま就任。草鹿龍之介 少将(機動部隊参謀長): 南雲長官とともに、新設の第三艦隊参謀長へスライド。のちには連合艦隊全体の参謀長に。源田実 中佐(航空参謀・作戦の立案者): その後も航空作戦の第一線で指揮を執り続け、戦後は航空自衛隊のトップ(航空幕僚長)や参議院議員を歴任。彼らも含めて、山本五十六長官はすべて海軍兵学校を卒業したエリートです。海軍の上層部は、海軍兵学校という学閥によって占められていましたので、その力学が働いたと思われます。
この学閥の恐ろしいところは、身内のエリートを徹底的に守る一方で、海軍兵学校を出ていない一般の兵士や下士官に対しては、驚くほど冷酷に責任を押し付け、使い捨てにした点にあります。実際に、海戦の真実を知る末端の生存者たちは帰国直後に隔離され、世間から「存在しなかったこと」にされました。また、のちに戦況が悪化すると、海兵出身の指揮官たちは安全な司令部で「物語」を書き換える一方、起死回生、一発逆転を夢見て、兵学校を出ていない若者たち(学徒出陣の予備士官や少年兵)を「特攻」という名で大量に消費していくことになるのです。澤地久枝氏は、そのような組織の体質に対して敢然と立ちはだかった方だったのです。彼女は「作戦」から戦争を見るのではなく、「死んだ一人一人」から戦争を逆照射したのです。
海軍上層部が「作戦」「戦果」「運命」という言葉でミッドウェイを語ったのに対し、澤地氏は3418人の「名前」から海戦を見直しました。国家や軍隊にとっては一人の戦死者は数字の「1」にすぎないかもしれません。しかし、その一人には名前があり、家族があり、それまで生きてきた人生があります。澤地氏が行ったのは、数字になってしまった死者を、もう一度一人の人間に戻す作業だったと思われます。
組織の本当の強さは、失敗しないことにあるのではありません。失敗したときに事実を隠さず、原因を検証し、責任の所在を明らかにし、その教訓を次に生かせるかどうかにあります。ミッドウェイ海戦が現代の私たちに突きつけているのは、84年前の海戦の勝敗だけではなく、「日本の組織は失敗とどう向き合うのか」という、今なお終わっていない問題なのだと思います。

(「www.amazon.co.jp」)
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