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天皇を中心とした家族主義的国家をつくるのが、太子の願いだった――聖徳太子の足跡を辿る(3) / 聖徳太子1400年の遠忌にあたって

女性

「聖徳太子の3回目ということで、今日は「主座」の話をお願いします」

「「主座」というのは実は松下幸之助氏の言葉です。敗戦となり、国家存亡の危機と思った彼が、日本の伝統精神とは何かを自問自答して出した「日本の伝統精神」の3つのうちの一つです」

女性

「そもそも、彼が考えた「日本の伝統精神」とは何ですか?」

「「衆知を集める」こと、「和を貴ぶ」、そして「主座を保つ」です。実は、いずれも十七条憲法の中に書かれています」

女性

「素朴な疑問ですが、一番大事なのは「主座を保つ」、つまり中心軸を定めること、それを確認することが一番重要だと思いますが、十七条憲法では3番目の扱いとなっています」

「扱い方の重要度が低いという意味でしょうか?」

女性

「十七条憲法で最初に掲げるべき原則だと思います。組織の中心軸を定めた上で、「和」や「衆知」の結集を言うのなら分かりますが、どうして最初に「和」だったのでしょうか?」

「彼の生きた時代状況を考えれば分かると思いますが、大上段に天皇を中心にした政治とは、とても言えるような状況ではなかったと思います」

女性

「もし、そういうことを言ったとしたら、どのような問題が起きると思いますか?」

「有力豪族の蘇我氏が黙っていないでしょう。そして、実は聖徳太子と蘇我氏は姻戚関係になっていたので、そこを前面に押し出すことはできなかったと思います」

女性

「本音の部分はどうだったのですか?」

「本音は天皇を中心に据えた日本の政治を考えていたのです。そのことによって中心軸を定め、安定した国家体制をつくろうと考えていたことは確かです」

女性

「ここからが本論です ↓」

 天皇中心政治を言い出す状況になかった

組織を固めるためには、中心軸を固める必要があります。それは時代が変わったとしても、永遠に変わらない法則の一つでしょう。国家も組織である以上、同じ理屈です。国家という組織を長らえるためには、どうしても天皇を中心に据える必要があると太子は考えていたのですが、それを公然と言い出す状況にはなかったのです。

それは何故なのか。蘇我氏の存在です。当時の蘇我氏の勢いは、天皇家を凌ぐ程の勢いがありました。実際に、後崇峻天皇暗殺事件(592年)が起きています。本来は張本人の蘇我氏討伐ということになるべきでしょうが、そうはなっていません。蘇我氏と天皇家とは姻戚関係にあり、見方によっては内輪もめです。そして、聖徳太子は蘇我馬子の娘と婚姻関係を結んでいるので、太子は血筋を重んじるべきなのか、国家という組織を優先して考えるべきなのか、多分思い悩んだことと思います。

(「アメブロ」)

 万感の思いで十七条憲法の第三条を定める

「詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。天覆い、地載せて、四の時順り行き、万気通ずるを得るなり。地天を覆わんと欲せば、則ち壊るることを致さんのみ。こころもって君言えば臣承(うけたま)わり、上行けば下…(略)」と格調高い文章で書かれています。

余談ですが、こういった文章を現代人は意味を汲み取れなくなっています。英語よりも、母国の言葉をしっかり伝えていく、そういったことの方が重要と考えています。これは学校教育の問題でもあるのですが、それはともかくとして、現代語訳を紹介します――「天皇の命令にはしっかりと従いなさい。天皇が天なら、臣下は地です。天が地を覆い、地が天を乗せている。そうして初めて四季が巡り、万物に調和がもたらされているのです。地が天を覆うようなことをすれば、秩序は乱れ、国の調和も乱れてしまうでしょう」と言っています。

蘇我氏が我が物顔で日本の政界を牛耳っていたのですが、それを何とかしたいと考えます。中国との外交関係を足掛かりにして、自分の思い描いている国の在り方にもっていこうとします。天皇という位を隋が認めれば、それを一つの口実にして国内の政治の中心に天皇を据えることができると思ったのでしょう。

ただ、その辺りはなかなか上手くいかなかったようです。それは、上記の条文を3番目に置いたことで分かります

国家の中心軸に確たる人物を置くのは分かる。蘇我氏からすれば、どうして我々ではダメなのかという素朴な疑問も提起されていたかもしれません。そもそも、太子は蘇我氏とは姻戚関係の間柄ではないか、「そなたは何を言っているのか」と言われたかもしれません。

結局、この問題は太子の時代には解決することはできませんでした。ただ、彼の思い描いた家族主義的な国家観の上に立って国づくりを行う、その中心に天皇を据えるという考えは代を継いで約100年後、天武天皇の時代に権威と権力を分離する日本独特の統治システムとして結実をすることになります

(「ガウスの歴史を巡るブログ」)

 家族主義的国家観によって国づくりが行われた

家族主義的国家観というのが、現代の日本においてもきちんと理解されていません。これは戦後の日本の歴史学会がマルクス主義の影響を受けて、階級国家観で歴史を捉えるからです。階級国家観に立つと、国家は人民を抑圧する機関と捉えますので、家族主義的国家観というのは、あり得ないということになります。

あり得ないか、あり得るかではなく、事実を検証して、データを集めて帰納法的に考察する必要があります。そもそも狭いヨーロッパの国土で多くの民族が肩を寄せ合って、時には領地・領土を巡って紛争を繰り返していたところから生まれた国家観を、数万年にわたって他の国と領地・領土争いをしたことのない国に当てはめようとすること自体に無理があるのです。

日本は大陸とは違って農耕民族であり、海洋民族の国です。大陸の狩猟民族とは、「土地」そのものに対する見方、価値観が違います。狩猟民族は「土地」は増えれば増えるほど食料を確保する可能性が高まるので、「土地」を増やそうと考えます。ロシアや中国が拡張主義を今でもとっているのは、そういった彼らの中にあるDNAがなせる業だと思っています。農耕民族は生活できる土地を確保さえ出来れば由と考えます。必要以上に土地をもっても、労働がそれに比例して増えるだけですし、周りに仲間がいないとなれば孤独の中で生活しなければなりません。

そのうち、生活を維持できる土地を家族や地域で守っていくという発想が生まれます。その辺りの痕跡は言葉に残っています。「地縁による団体が『ヤケ』(宅・家)であり、その中で大規模なものが『オオヤケ』(大宅)」(直木孝次郎『日本の歴史2 古代国家の成立』(中公文庫/1991年)193-194ページ)となり、これが後に「公」になったことは想像に難くありません。語源を辿ることによって、私と公を連続的に捉えようとしていたことが分かります。そして「オオヤケ」が「国家の規模にまで拡大されたことにより、天皇の朝廷が『公』とよばれ、さらにそれは古代ばかりでなく、中世以降の国家にも継承される」(井沢元彦 『仏教・神道・儒教 集中講座』(徳間書店/2005年) 152ページ)ことになります。このようにして、日本独特の家族主義的国家観の上に立って官民一体の観念が醸成されていくことになるのです。

(「Twitter」)

 西洋の国家観は公と私を敵対関係で捉える

西洋では公と私を対抗関係で捉えます。この典型が共産主義思想です。立憲主義も両者を対立関係で捉えますので、発想は同じです。共産党と立憲民主党は同じような国家観をもっているため、お互い親近感をもつのです。ただ、日本の伝統的な国家観というのは、公の中に私を包摂して考えるものです。「和」はその原点になっている言葉なのです。聖徳太子が何かと「攻撃」の対象になるのは、こういった事情からです。

話を元に戻します。その後の大化の改新(645)の際の「公地公民」制の導入、さらには時代が下って明治維新期の大政奉還を経て版籍奉還、廃藩置県、徴兵制、地租改正といった大きな改革を断行するのですが、その割には大した抵抗もなく短期間で完了しているのは、根底に「和」の考えに基づく「公」の価値観が千年以上にわたって日本の深層に流れていたためと考えられています。

ただ、ここ近年は、そういった日本人の良き価値観を意識的に壊そうとしている反日的な動きが目立ちます。人間も選んで付き合うように、外国の価値観や思想、採り入れるものと採り入れないもの、区別をきちんとしないと、組織は内部から崩れていきます。歴史を学ぶことによって、そのリテラシーを高めることが国民一人ひとりに求められています

最後になりましたが、「聖徳太子と法隆寺展」が東京国立博物館で9月の5日までの予定で開催されています。太子を偲びながら、21世紀の日本のあり方を考えるきっかけにして頂ければと思います。

(「CAREER PICKS」)

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