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追悼 半藤一利氏の『昭和史』を読む / 日本人の弱点――「大局観が全くない、複眼的な考え方がほとんど不在」(半藤一利)

「半藤一利氏が亡くなってもう1年経つのですね」

女性

「よく思い出しましたね」

「今日(1/12)の朝のNHKの番組で放送していたので、それで知ったのです」

女性

「私もそれを見ていましたが、東京大空襲を経験していらっしゃるんですね。ただ、そのことをずっと話さなかったと友人の方が言っていましたね」

「大量の焼夷弾で家は焼けつくされています。まさに地獄絵だったでしょうね。思い出したくもないというのが本当のところでしょうね」

女性

「そういった強烈な体験が、昭和の時代は一体何だったのかということで、歴史研究に向かう動機になったのでしょうね」

「彼の『昭和史』には、そういった戦争に対する怒りだとか理不尽さといったものが滲んでいると思います」

女性

「そういったものが大きいために、何も語りたくないということでしょうね。分かります。何となく、その気持ちは……」

「よく、ああいう戦争をやったなと思いますよね。始めてしまったものは仕方がないので、どこかで終わらなければいけないのに、ずるずると結局原爆投下まで引きずってしまったという印象です」

女性

「話題に出ていた東京大空襲は終戦の年の3月ですよね。そこで終わるという判断もありですよね」

「おっしゃる通りだと思います。首都の制空権を取られてしまっているので、殆ど勝負はあったと言って良い訳です。日本の悪いクセがそこでも出てしまったということでしょう」

女性

「そのクセについて語っていただきましょうか。ここからが本論です」

 日本人の欠点――「大局観が全くない、複眼的な考え方がほとんど不在」(『昭和史』)

半藤氏が『昭和史』の最後に「昭和史20年の教訓」ということでそれを5つにまとめています。その中で、大局観が全くないということを指摘されています――「何かことが起こった時に、対症療法的な、すぐに成果を求める短兵急な発想です。これが昭和史のなかで次から次へと展開されたと思います。その場その場のごまかし的な方策で処理する。時間的空間的な広い意味での大局観が全くない、複眼的な考え方がほとんど不在であったというのが、昭和史を通しての日本人のありかたでした」(『昭和史』平凡社、2004年/502ページ)と手厳しいです。

この大局観がない、持てないという指摘は現在においても当てはまることだと思います。弱点をそのまま引きずっています。これは、農耕民族のDNAを受け継いでいる故の弱点ではないかと思っています。どういうことか。物の見方というのは、マクロの視点とミクロの視点があり、両方から見ることによって立体的に理解することが出来ます。何万年という気の遠くなる時間を目の前の農地だけ、海だけそして、自分のムラだけを見つめて生活をしてきたために、その「クセ」がDNAに刻み込まれているのでしょう。狭い分野に特化した場合に、日本人は非常に力を発揮するのですが、長いスパンで物事を考えたり、見たりというのが苦手な傾向があります。

 単眼ゆえにのめり込む―― 「国民的熱狂をつくってはいけない」(『昭和史』)

単眼で見るために、どうしてものめり込みやすいという弱点を持つことになります。だから半藤氏は、「国民的熱狂をつくってはいけない」と言います。熱狂というのは理性的なものではなく、感情的な産物ですが、昭和史全体をみてきますと、なんと日本人は熱狂したことか。マスコミに煽られ、いったん燃え上がってしまうと熱狂そのものが権威をもちはじめ、不動のもののように人びとを引っ張ってゆき、流してきました」(同上、499-500ページ)。複眼で見ていれば、立ち位置がおかしいということでブレーキがかかるのですが、それを誰も掛けられない、最後の最後まで行かないと止まらない、挙句の果ての原爆投下だったということです。

それは、戦後の安保闘争が完全にそうですし、最近では一部新聞が扇動した東京オリンピックのボイコット騒ぎも、そういう傾向がありました。最近は、SNSで個人が意見を自由に発信できるようになったので、ようやく少し歯止めが掛かるようになったところです。

(「web.thu.edu.tw」)

 農耕民族のDNAが今の日本人のあり様に影響を与えている

「最大の危機において日本人は抽象的な観念論を非常に好み、具体的な理性的な方法論をまったく検討しようとしないことです。自分にとって望ましい目標をまず設定し、実に上手な作文で壮大な空中楼閣(ろうかく)を描くのが得意なんですね」(同上、501ページ)。そんなことから、共産主義思想は日本人の琴線によく響く考えだと思います。だから、冷戦が終わり、ヨーロッパ・コミュニズムが完全になくなった今でも日本ではそれなりの勢力を保って影響力を維持しているのは、そのためです。

そして、具体的なことについて検討しようとしないというのは、日本人のもっている性善説的な考え方に拠っているところが大きいと思います。プランが提示されれば、普通は実現可能か、実現すればどのような影響を及ぼすのか、そういったことを考えるべきなのですが、突き詰めて考えようとしません。突き詰めて考えることは、相手を疑っていること、つまり失礼なことというように捉える傾向があります。とにかく、相手の土俵に乗って上げることを優先する発想が強いのです。そんなことから、オレオレ詐欺に引っかかる人が後を絶たないのです。これも実は農耕民族のDNAと関係があるのです。

大陸の狩猟民族は、殆どが個人プレーで食料を調達できます。片や農耕は自然条件も含めて多くの要素と多くの人の協力がどうしても必要です。自分の土地だからと言って勝手に農作業は出来ません。横一線で行うよう、つまり協調性が求められますし、ムラの中ではそれが大事なルールだったのです。日本人は気配り上手と言われますが、それもDNAのなせる業なのです。

(「oeufs-chair-gene.jp」)

  「最大の危機において日本人は抽象的な観念論を好む」―― 『新しい資本主義』構想がまさにそれにあたる

「最大の危機において日本人は抽象的な観念論を非常に好み」というところに話を戻します。今現在が日本にとって危機的な状況にあると言って良いでしょう。中国や韓国など近隣諸国との外交防衛問題、経済の立て直し、少子高齢化、憲法改正、皇統の安定化など多くの問題を抱えています。

岸田首相が『文藝春秋』の今月号に「私が目指す『新しい資本主義』のグランドデザイン」というテーマで論文を投稿しています。この内容について、次回に批判的検討をしたいと思いますが、まさにこの内容は半藤氏が指摘した言葉が批評としてピッタリ来る論文です。

看板を掲げれば、それに合わせて現実が動く訳ではありません。ましてや、経済は生き物です。人間の人為的な力によって自由に動かせるものではありません。大いなる勘違いが混じっています――「アベノミクスなどの成果の上に、市場や競争任せにせず、市場の失敗がもたらす外部不経済を是正する仕組みを、成長戦略と分配戦略の両面から、資本主義の中に埋め込み、資本主義がもたらす便益を最大化すべく、新しい資本主義を提唱していきます」(岸田文雄、前掲論文)。

完全な抽象論です今、必要なことはそういった大風呂敷を広げることではなく、現実の社会的状況の中で、具体的に政治が手を差し伸ばさなければいけないことに一つひとつ地道に取り組むということです。例えば、子供や高齢者、障害をもっている人たち、いわゆる社会的弱者をどのレベルで救済するのか、次世代を担う子供たちの教育の質的レベルをいかに上げるか、そこには不登校の生徒の対策も考える必要があります。労働生産性が低いために賃金が上がらないのです。もちろん企業に要請することも大事ですが、だから研修や資格をとりやすくするための制度を作ったりする必要があるのです。

細かい指摘については、次回のブログで行いたいと思います。

(「日本経済新聞」)

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